Asahi Shimbun Weekly AERA 2011.12.26-AERA「現代の肖像・小出裕章」

AERA「現代の肖像・小出裕章」

40年前に刻まれた反原発の思想

講演の後、忙しすぎませんか?と尋ねた。「そうも言っていられません。いまは戦争中ですから」。
言葉の強さにはっとするが、口調はあくまでもやわらかく、穏やかな表情を絶やさない。
決定的事故が起こるまで動かなかったこの国に、万年助手の研究者はいまなにを思うのだろうか。

文:今井 写真:会田法行

夏の終わりに東京・浅草で催された「核・原子力のない未来をめざす市民集会」は、定員の700席が予約のみで埋まった。ゲストスピーカーは4人いたが、聴衆の大半を占める女性たちのお目当ては小出裕章(62)第2部に登壇した彼は、自作のパワーポイントを使って丁寧に話を進めた。「こうなってしまったのは、すべて大人の責任。子どもには何の責任もない。だから、われわれ大人が全力で子どもたちを守らなければならない」背は高く痩身。声優ばりの艶のある声。全国各地を駆け回り練り上げた話を1時間半ほどかけて講じたあと、聴衆との質疑応答となった。
次々と手が挙がり「放射能」「ベクレル」「シーベルト」 という言葉が飛び交う。質問はいずれも子どもを守りたいという母親の疑問や懸念ばかりー。小出は、その一つ一つにじっくりと答える。

東北大学原子核工学科を卒業後、いわゆるで原子力ムラ」に入って御用学者の道を選ばず、37年にわたり京都大学原子炉実験所で助教(助手)として研究を重ねてきた。日常生活でも、エレベーターには乗らず携帯電話は使わない、通勤は自転車、研究室は真っ暗という徹底した省エネぶり。明快な理論、解説だけではなく、小出のそうした生き方が人々の共感を呼び、一般的にはほとんど無名だった彼の生活は、3・11以降様変わりした。
各地へ赴いてこなした講演の回数は110回ほど。月平均12回ということになる。そして、講演内容などを活字化しでまとめた本が、各社からなんと時冊も刊行された(うち8冊は共著)。これはもう「小出裕章ブーム」というしかない。

 原爆から平和利用ヘ
「我々の責務」とまで考えた

閉会後、本にサインをしてほしいという人たちが、会場の壁際に列を作った。その数ざっと50人。みな自分の番が回ってくると、サインだけで終わらず写真を撮ったり話し込んだり。撤収作業を始めた主催者がたまりかね、「一人30秒でお願いします」と頼んだ。だが、そんな求めを無視して、女性たちは小出との会話を楽しもうとする。
「3・11以降、ずっと松本に避難してるんですが、きょうは先生に会いたくて東京に帰ってきました」
「先生、お酒がお好きなんですってね、今度お薦めの地酒を送らせていただきます」
語りかけてくる人に対して小出は、「そうですか」「ありがとうございます」と、急かすことなく笑顔で応じる。そんな中、一人の中年女性が本にサインをしてもらったあと、突然「先生、ハグしてください」と言った。「それはちょっと・・・」と断ると思いきや、小出はすぐさま立ちあがり、顔を崩しながら彼女をぐっと抱きしめた。女性は大喜び。まるでアイドルタレントだ。
浅草での集会の後、主催者らと居酒屋で打ち上げ。それでは終わらず、後藤政志(元原子炉設計者)や澤井正子(原子力資料情報室スタッフ)らと飲み直そうということになる。隅田川花火大会の見物客でごった返す表通りを避け、裏の小路を抜けて伝法院通りへ。迷いなく右へ左へすいすいと歩く小出に私が「詳しいですね」と言うと、「そりゃそうですよ。私はこの辺りで育ったんだもの。だけど風情がなくなっちゃったなあ・・・」
広島・長崎に原爆が投下された4年後、小出は東京都台東区の下町で生まれた。父は繊維関係の零細企業の経営者。母はその手伝いをしていた。兄と共に近所では利発な兄弟として知られ、小出は地元の小学校から私立開成中学・高校に進む。中学、高校時代は地質部で活動。受験勉強に明け暮れる学友たちとは違い、入試直前の1月まで地質部部長として伊豆大島での調査研究を重ね、この年の日本学生科学賞最優秀賞をとった。
だが、小出青年の関心は原子力にも向かっていた。その気持ちを決定的なものにしたのが原爆だった。高校3年の夏休み明け、銀座の松坂屋で催された「ヒロシマ原爆展」に足を運ぶ。これは広島市が主催したもので、被災者の遺品や丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」などが展示された。小出は多くの観覧者同様、原爆による甚大で惨たらしい殺傷に息をのむ。だが、彼が他の人々と違ったのは、この驚異的なエネルギーを、兵器としてではなく人類のために役立てたいと考えたことだ。
「ものすごい悲しみが、ものすごい期待にひっくり返ってしまったんですね。原子力の平和利用を進めるのは、大和民族の責務だとまで考えました」
こうして、東北大学工学部原子核工学科への進学を決めた。同科の学生は、みんな小出と同じように原子力の平和利用に夢を託す者ばかりで、彼らの大半は卒業後、「原子力ムラ」に進んでいった。
小出は勉学の傍ら、山歩きを楽しむ自然逍遥会に入っていた。そこに同じ学科の2年先輩、篠原弘典(現「みやぎ脱原発・風の会」代表)がいた。学生運動全盛のこの時代、学生は日常的に「闘争」について語り合い、自然逍遥会でもときおり議論が弾んだが、入学当時の小出はそんな話題にはほとんど乗ってこなかった、と篠原は言う。
ペ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の「殺すな」というバッジを胸につけて高校の卒業式に向かい、入り口でそれを諌める体育教師とやりあうぐらいの社会的意識はもっていたが、小出はいわゆるノンポリに近かった。そんな彼がある事件と出会うことにより急速に覚醒していく。
1969年1月、1年生だった小出は、大学の生活協同組合に展示販売されているテレビの前を通りかかった。その時、映っていたのが東大安田講堂での学生と機動隊との壮烈な攻防戦だった。
これは何だ?東北大でも学生運動は盛んだったが、あまりに衝撃的な映像を目にした小出は、大学闘争に強い関心を抱くようになる。
「自分たちがやっている学問や研究が社会においてどんな役割を果たすのか。学生運動というのは、それを突き詰めて考えることでもあったんです」

 合理性に欠ける「安全神話」
女川で受け止めた怒りの声

小出の場合それは原子核工学だった。旧帝国大学のすべてに設けられたこの学科は、原子力推進という国策に正当性をもたせることを使命としており、これに背く研究などあり得なかった。だが、この国策は本当に社会のためになるものなのか。
疑問を抱いた小出は、国内の学者の学説のみならず、海外の研究者の見解をも積極的に拾い集めて検討を重ねる。結果、この分野には合理性に欠ける「安全神話」が蔓延っていると断じた。そして、19歳にして自身の価値観を百八十度転換する。
「学生服を着て大学に来ていたあの生真面目な小出が、1年後には黒ヘル被って「入学式粉砕」ってピラを撒いてたんで、びっくりしましたね」
篠原は今でもその光景をはっきり覚えている。
小出にとって人々を不幸に導く研究者を育てる授業は阻止せねばならないものであり、授業を受けるためではなく潰すために大学へ通っていた。
入学式が「粉砕」された年に東北大に入った湯浅一郎(現「ピースデポ」代表)はこう話す。
「小出さんは一匹狼でした。どのセクトにも一度も入らなかった。たとえ一人でも自分の意志でやるべきことをやる。赤でも青でもなく、黒いヘルメットをかぶっていたのはその証です」
まもなく、反公害闘争委員会に入った小出は、自身で全国原子力科学技術者連合の東北大支部を立ち上げ、東北電力が原発建設の予定地としていた宮城県女川町の人々との交流もはかった。
70年10月23日、女川の漁民が原発建設反対の総決起集会を聞いたこの日、小出は篠原ら仲間十数人と仙台から列車に乗って女川へ向かった。海岸広場には二千を超す人々が集まり、海上では夥しい数の漁船が原発反対の臓をはためかせていた。
絶対に安全だというなら電気を使う仙台に造ればいい。なんで女川に造るんだ。町民の怒りの声を聞いた小出の覚悟はいっそう強いものになる。そして、翌月から仲間と共に「のりひび」と題したピラを作り女川の人々に配布することにした。
年が明けると、地元の原発反対運動のリーダー阿部宗悦の計らいで、町内にある眺湾荘という古いアパートの一室を借りた。71年1月31日発行の「のりひび」にはこんな記述がある。
「女川に我々は現地闘争本部を置きました。・・・共に抗議行動を繰り返し、原発建設反対の意思表示をしていこうではありませんか。そして漁業権を守り、生命を守っていこうではありませんか」
六畳一間に裸電球が一つ、煎餅布団が一枚という現地闘争本部に仲間と交代で寝泊まりし、仙台から持ち込んだガリ版でせっせと「のりひび」を刷った。それを抱えて朝早くから集落を回ると、町民の家を訪ね歩き、これを手渡していった。
よく小出と組んでピラを配ったという同期のMは、こんな思い出を語った。ある日、いつものようにピラの配布をしていたら、ガタイのいい若い男が、「『のりひび』の兄ちゃん(あんちゃん)か?」と言って小出に近寄り、突然「余計なことすんな」と彼の顔に唾を吐いた。小出は持っていた手ぬぐいでそれを拭うと、何事もなかったかのように次の家に向かって歩き始めたという。
「まったく動じなかったですね。意思が強く、自分で決めたことは絶対に曲げない。易きに流れ、原子力ムラに入っていった僕らとは違ってました」
やがて、小出らは活動の一環として「援漁」に踏み出す。学生は町民に交じってワカメの芽付けや牡蠣の殻むきをした。その手際は拙かったが、半年も経つと、互いに気心が知れていく。
「今朝漁れた秋刀魚だ。持って帰れ」
そういって数十尾の秋刀魚が入った袋を漁師から手渡されることもあった。小出はそれを「山屋敷」と呼ぶ仙台の根城へ持ち帰り、下宿のおばさんに渡したりもした。おばさんこと曽根まき子は、「その秋刀魚を七輪を出して外で焼いて、下宿の学生みんなで食べたの。おいしいって顔をほころばせてね。みんなほんとにいい子たち一でした」
当時、この下宿にいた活動家一が何人も逮捕されたが、おばさんはいつも小出たちに頼まれ、着替えを持って留置所へ差し入れに行った。
小出が74年の春に山屋敷を出てから37年。当時の下宿人たちは毎年、東京、大阪と場所を変えながら曽根を招待して同窓会を聞いている。今年は8月に松島の旅館に集まったが、そこには、反原発一筋の者のみならず、後に原子力ムラに入ったMたちも顔を見せた。
同窓会の翌日、松島を発った小出らは女川に足を運んだ。900人を超す町民とその家々が大津波にのまれてしまった町の中心部は、無残な姿を曝したまま。共に闘った阿部宗悦も自宅を失い、仮設住宅に避難。見舞いに来た小出らに宗悦はこう言った。
「この町の復興に原発廃炉は不可欠だ。かれこれ30年も抱え込んできたけれど、これまで以上に原発はいらないといという声を上げていく」
生涯、原発をなくすために役立つ研究を続けようと決め、小出が大学卒業後の進路に選んだのが京大原子炉実験所だった。ここには、海老沢徹、小林圭二、瀬尾健(故人)、川野真治といった原子力利用に警告を発する論客が揃っていて、後に小出や今中哲二を加え、実験所が大阪府泉南郡熊取町にあることから「熊取6人組」と呼ばれるようになった。小出は、彼らと共に四国電力の伊方原発訴訟や関西電力の日高原発建設問題などに取り組む中で、理論的にも精神的にも鍛えられ、磨かれていった。小林は、小出には二つの大きな柱があるという。
「一つは、科学者として、本質を見抜き決してブレない妥協しないという柱。もう一つは、人として、虐げられている人たちに思いを寄せるという柱。権力に対するあくなき抵抗と言ってもいい」
放射能で汚染された食物についての小出の主張はその二つの柱の表れだと言う。

 農産物を食べるか否か
支持者とも激しく論争

小出は国に汚染状態を厳密に検査・公表させたうえで、汚れたものは決して子どもらの口には入れないが、これらを廃棄せず、放射能の影響を受けにくい自分たち高齢者を中心に大人が食べるべしと主張。そうしないと農業に従事している人たちが経済的にも精神的にももたないという考えだ。
だが、この主張に対しては彼のファンの中からも厳しい批判が噴出している。それを知っている小出は、この秋、大阪のシアターセブンでの公演に際して「異論がある人たちと議論をしたいので対戦相手を募ってほしい」と自ら提案。「子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク」の森啓太郎や観客と激しい論戦を繰り広げた。
「日常的に食材を分別して料理することの煩雑さを考えると、小出さんの主張は非現実的」
「表示は信用できず、絶対に子どもの口に入れないためには、生産地で即刻廃棄するしかない」
こうした反論に小出も応戦。議論は尽きなかったが、聴衆はこの公演を「問題は単純ではないことがわかり考えさせられた」と高く評価した。
汚染されたものを食べるのか食べないのか。汚染された故郷に残るのか別の土地に移るのか。原発を認めるのか認めないのか。そんなことは、誰かに指図されたり、人に決めてもらうのではなく、私たち一人ひとりが自分で決めなければならない。
小出は「反原発」を訴えると同時に、市民に向かって、一人ひとりが主権者として「自立、自決」することの大切さを繰り返し説いている。

小出の役職「助教」というのは助教授の略ではなく昔で言うところの助手のこと。反原発の姿勢を疎ましく思われて教授の道を閉ざされ、「冷や飯」を食わされているのではないか。そんな憶測が飛んだりもしたが、京大の事務方はこう説明する。
「教授は公募によって採用していますが、小出先生は一度も応じられたことがありません」
これは小出自身も認める事実で、彼は講演の中でそれに触れることがある。
「助手は教員の最下層。誰かに命令されることもなげれば命じることもない。私にとってはとても居心地がいいんです。よほどの薄給だと思って、カンパをしたいと申し出る人もいますが、費沢しなければちゃんと暮らしていけますから」
薄給を心配された小出が、結果として多額の印税収入を得たわけだが、当の本人は本が売れたことを一向に喜んではいない。
「事故が起きたことにより、多くの人が原発に関心を抱き、私の本を読んでくださった。でも、事故が起きたということは私にとって敗北なんです。こういうことにならないようにと、私は学生の頃からずっと活動し研究をしてきたのに、原発を止めて、事故を未然に防ぐことができなかった。研究者としてみなさんに申し訳なく思っています」 今年彼が刊行した数々の著作には「原発安全神話」への批判、原発に依存しない社会の提案が記されているが、実は、40年前の「のりひび」にも、ほぽ同じ主張が刻まれでいる。私たちは、ずっとそうした意見を無視してきたのだ。
3・11以降、小出の講演を聴き、本を読んだ数十万の人たちが、果たして小出が説く真の市民になっていくのか、それとも、原発やエネルギーに対して無関心な元の大衆に戻ってしまうのか。
「政府のいいかげんな姿勢は全く変わらないし、この国がまともになるなんて期待はできない」
そのセリフを聞いてから小出の研究室をあとにした。実験所の出口に向かう道すがら、研究棟に目をやるとゲルニカと田中正造一の写真にはさまれた狭い研究室で机に向かう小出の姿が、モニターの光にぼんやりと照らし出されている。その姿に、原発神話に疑いを持ち懸命に真実を追い求めた、あの19歳の小出青年の幻影が重なって見えた。
(文中敬称略)

研究室へは30段変速の愛車で通う。休日はこれにまたがり露天風呂へ行ってビールを飲むのが楽しみ。でも、3・11以降その時間がない

37年も大阪にいるのに関西訛りは微塵もなく、イントネーションはずっと東京。きっとパートナもそうなんだろう。この辺もまた頑固だ

今井一
1954年、大阪府出身。ジャーナリスト。著書に『住民投票-観客民主主義を超えて』(岩波新書)、「「憲法九条」国民投票』「原発」国民投票』(ともに集英社新書)など。

-こいで・ひろあき-
1949年東京都台東区で零細企業の経営者の次男として生まれる。
62年地元の公立小学校から私立開成中学・高校に進む。地質部のほかに水泳部にも属し、競泳より日本(古式)泳法の習得で高い評価を受ける。
68年地質部の調査活動に没頭したため、わずか2カ月だけ受験勉強をやって東北大学に合格。詰め襟の学生服で大学に通うという、当時の若者とはややずれた感じの生真面目な学生だった。
69年東大安田講堂の攻防をテレビで目撃したことがきっかけで、学生運動に参加。ただし、決して群れないノンセクトを貫く。
70年「のりひび」を創刊。海苔ひびとは、養殖する海苔を付着させるために海中に立てる木や竹の枝のことで、自分たちのビラを反原発の仲間を増やす枝にしたいという小出らの思いが込められていた。
74年東北大学大学院工学研究科修士課程を修了し京都大学原子炉実験所に就職。以前から交際していた三千恵さんとの結婚も決め、実験所の官舎に住む。新婚旅行は北海道へ。 37年の間には、原発訴訟を起こした住民や原発建設を阻みたい住民らの理論面での支援を行ったりもしたが、基本的には、自宅と研究室を行き来する毎日が続く
2011年発してきた「警告」が現実となる甚大な原発事故が発生。なお続く危機的な状況、おびただしい放射能汚染と向き合いながら、研究者として積極的に発言する。5月には参議院行政監視委員会に参考人として招致され、「安全神話」を流布してきた歴代の政府や関係機関、電力会社を厳しく批判。講演先などで受け取った名刺が数千枚に達しているのに未整理のまま。英語を教える仕事をしている妻に「打ち込んでもらえないか」と助けを求める。
現在の役職の正式名称は、京都大学原子炉実験所原子力基礎工学研究部門助教。

Asahi Shimbun Weekly AERA 2011.12.26

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