「お母さん革命」息長く 放射能から子ども守りたい12/26東京新聞・こちら特報部

これをよんで「はぐちゃん」貴女のことを連想しましたわよ!貴女のなさってることを。

この記事2日待って、やっと文字起しをしてくださる人がいました。原発のウソさんありがとう。http://blog.livedoor.jp/ryoma307/archives/5615454.html

ねえ、はぐちゃん。修学院の小出さんの写真見せてくださらない?(それが言いたかったんか)
小出裕章は今や日本の有形財産である、と誰かが書いていましたのよ。

そうそう「京大の小出裕章先生のところの未読メールが1万通を超えた」というウワサを聞いたので会社の電算のお兄さんに聞いてみたら、未読でもそれを受け入れてるんだからサーバーは大丈夫なんじゃないかと。
「でも会社で長期欠勤者の未読メールが問題になったことがあるから年末休みは気をつけてね」といわれ、今入っているMLを一日一回モードにしてもらったの。
それにしても会社で社内メールが300ほど、普通のメールが700ほど未読のままの私は「プチ小出」状態かも。消すのもしんどいし読む気もないし。ふぅ
MLってメーリングリストのつもりでしゃべっていたら、「マルクスレーニン主義」のことを指すらしいことがわかりました。本当に、おやまあ。

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「お母さん革命」息長く 放射能から子ども守りたい【東京新聞・こちら特報部】12月26日

 福島第一原発の事故後、「放射能から子どもを守りたい」との一心で各地域で立ち上がり、果敢に行動する母親たちの姿が目立った。それはたった一人から、仲間やグループ同士、インターネットによるネットワーク化まで見られた。

行政に働きかけて動かした成果もあれば、厚い壁にあえぎ続けるケースも多い。アラブの春になぞらえた今年の社会現象の名は「お母さん革命」-。 (出田阿生、中山洋子、川崎支局・山本哲正)

 「福島の原発が廃炉になるころには、小学生のうちの子は40歳を過ぎている。それを考えたら『お母さん革命』じゃなく、『おばあちゃん革命』になるまで、息長く続けなきゃいけない」

 こう話すのは、東京都練馬区の主婦宮崎みどりさん(46)だ。もともと保育の仕事をしていたが「仕事と育児を両立させるほど器用じゃないので」と、今は小学四年の長男(10)と年長児の次男(5つ)の子育てに専念する。

 学校給食の食材の産地公開を求めて、学校長や行政担当者のもとに通った。ようやく来年1月、2日分の給食の公開が決まった。「ダメとあきらめず、じっくり言い続けると少しずつ変わる」

 最初は一人で思い悩んでいた。練馬区内では5月ごろから、子どもを放射性物質から守るための母親グループが結成され始めていた。各地でも携帯メールや短文投稿サイト「ツイッター」、ブログを使い、親同士の交流が始まっていた。

 それも緩やかな連帯で「登録制でもないし、ネットの情報だけ見ている人もいる…」。宮崎さんも携帯メールでのやりとりや、月1回の茶話会に参加する程度。テーマは深刻だが、宮崎さんの夫が「サークル活動みたいだね」と評するように、活動は自然体だ。

 「学校は何もしない。働きかけなきゃ」と思ったのは、原発の爆発から間もない3月18日。長男が「今日外で2時間、草むしりしたよ」と話したときだ。長男にはマスクを着けさせていたが、していない子が多かったと聞いた。すでに放射能問題が騒がれていた。

 長男の社会科見学の行き先に東京港の「中央防波堤」があった。東京都の最終処分場で、高濃度の放射性物質を帯びた焼却灰や汚泥も保管される場所。学校に説明や行き先の変更を求めた。

 PTA役員をしたり、学校に注文をつけたこともない。自身の活動を、アンデルセン童話「裸の王様」に出てくる子どもにたとえる。詐欺師に騙された王様や家来たちが言い出せない状況で「王様は裸だよ!」と叫ぶ。

 野田佳彦首相が「事故収束宣言」を出すなど、政府は被害の過小評価に躍起だ。だからこそ「もう危険じゃない、という心理操作に惑わされないように、忍耐強く活動を続けたい。それが大人の責任だと思うから」。

 「ホットスポットハンター」とも呼ばれ、放射線測定器を持ち歩く川崎市中原区の長戸清美さん(47)も2児の母親だ。

 8月、市民グループの一員として市内の公園の放射線量を調べ、周囲より線量が高い「ホットスポット」を次々と見つけた。市がそれまで公園の中央部などを計測し、安全の目安とした毎時0・19マイクロシーベルトを上回る場所はなく「問題はない」との姿勢を、変えさせた。

 市は、落ち葉の集積場所などを調べ直して除染する一方、長戸さんらを頼る。「測定器を持って外出すると、1、2カ所を見つけてしまう」と長戸さん。水がたまりやすい所など、測定のコツが身に付いたため。ハンターたるゆえんだ。

 原発事故後、長女が買い物に出かけると、めったにない鼻血を出した。ツイッターでつぶやくと「何をばかなことを、という雰囲気」。政府やメディアの繰り返す「安全」論が、心配する保護者と楽観する保護者とを分けていったと感じた。

 活動してきた仲間たちとは、お茶会や飲み会などでくつろげる関係をつくった。特別に参加を許された父親たちも「職場ではとても、こんな話ができない」と破顔した。

 放射能への不安は抑えることで解消されない。

 「お母さん革命」について「国が情報をちゃんと出さないから、自分たちで動かなければいけないと思った人が多いのでは」。長戸さんは子どもへの愛情と「本能的な種の保存」といい、国への不信は続く。「食品の規制値も1キロ当たり2、3ベクレルでないと。草の根でまだまだ頑張らないと、子どもたちを守れない」

 放射能問題で母親たちが立ち上がったのは、今回が初めてではない。

 1954年3月、マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験を機に世界に広がった原水爆禁止運動。その発端は杉並区の母親たちの署名活動だった。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の被ばくや、汚染されたマグロは母親たちを嘆かせた。

 その流れの中心で、原水爆禁止の訴えを発信したのが、平塚らいてう(ちょう)(1886~1971年)。女性解放運動と自立をけん引した作家だった。

 今も続く日本母親大会は、らいてうらの呼び掛けで始まった。戦争の傷あとも癒えない時期だけに、水爆実験への恐怖と怒りで全国の母親が集まった。第1回大会では、らいてうの書で「世界のお母さん手をつなぎましよう」と記した手ぬぐいも販売されている。

 その生涯を紹介する写真集「わたくしは永遠に失望しない」(ドメス出版)を出した「らいてう研究会」代表の折井美耶子さん(76)は「もし生きていたら『原発廃止』のひと言でしょう。らいてうの思想の中心は、命の問題でした」と語る。

 本名は平塚明(はる)。現在の千代田区で生まれ、日本女子大家政学部に通う傍ら英語や文学を学んだ。1911(明治44)年、日本初の女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」を創刊。「元始、女性は太陽であった」という辞は、歌人の与謝野晶子が寄せた詩の「山の動く日来る」の言葉とともに大きな反響を呼んだ。今年は創刊百周年だった。

 事実婚で2人の子を育て、「新しい女」と揶揄され貶められたりしたが、折井さんは「おとなしく黙っていない女は『ヒステリー』で『黄色い声を張り上げる』と言われた。悪口は変わっていませんね」と苦笑する。

 23年9月の関東大震災でも、女性たちの動きは素早かった。当時の東京市の呼び掛けでミルクの配給や被災した子どもの世話に奔走。日ごろ主張も異なる女性たちが東京連合婦人会を組織し、復興に力を合わせた。らいてうも加わった。

 会は行政と協力し、ふとん作りなど被災女性の授産活動に動いた。大正デモクラシーを経て、女性の活動範囲は広がり、戦前からの婦人参政権運動も戦後ようやく実る。

 らいてうは晩年も85歳で亡くなるまで平和運動に身を尽くす。70年安保に反対し、自宅近くをデモ行進した。

 当時を知る折井さんは「小柄で、とってももの静かな方。銀髪がおきれいでした」とその思いを代弁する。「原発再稼働を許すらいてうではない。命を守る運動を積極的に進めることが、志を継ぐこと。男性たちにも頑張ってもらいたい」

<デスクメモ>
 日々のニュースで作る通常紙面は今日が最後です。3・11後は震災報道を続け、従来のさまざまな「話題の発掘」も必要では、との議論もしました。しかし世界も揺るがした原発事故に力を注ぎ、今年を象徴する「お母さん革命」で締めました。たくさんの叱咤激励のご意見に感謝いたします。(呂)

東京新聞・こちら特報部 12月26日

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