中日新聞・特集「犠牲の灯り」<第4部「若狭の滴」>(関連特集)と(1)黒いと暗い

今日から開始した第4部「若狭の滴」。
中嶌哲演師のお話には水上勉の「故郷」の話が出てくる。是非読まなくては。隆祥館書店に注文しよう。
若狭といえばニソの杜(もり)、去年シンポジウムがあったらしい。
http://sauvage.jp/report/nisonomari.html

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【犠牲の灯り】 2013年5月27日
<第4部「若狭の滴」> (1)黒いと暗い
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/akari/list/CK2013052702000205.html
自然豊かな故郷の山里を描き続ける渡辺さん。「命あふれる山の色は黒い」と話す=福井県おおい町で

 「命あふれる山の色って黒いんや」。福井県おおい町、若狭の山里に住む画家、渡辺淳(すなお)(81)は少々、奇妙なことを言う。

 昨日や今日の思い付きではない。絵を描き始めた小学生のころから、かれこれ七十年余り。何百回と故郷を描き続けてきて、たどり着いた境地だ。

 幼少期、渡辺は極貧にあえぐ両親に里子に出された。腕のいい大工だった義父は戦争でフィリピンから戻った後、体を壊し、寝たきりに。十五歳になった年、一家の暮らしを支えるため、炭焼きを始めた。

 自ら建てた山小屋に何日もこもり、カシやナラの木を切り出して、焼く。日が暮れれば、闇を照らすのはランプひとつ。「おまえはゆうべも見かけたな。今まで何しとったんや」。灯火に集う蛾(が)に語りかけながら、消し炭でくしゃくしゃの新聞紙にスケッチした。

 炭焼きがすたれ、食っていけなくなる三十路(みそじ)手前までそんな日々が続いた。

 素朴な画風で「野の詩人」と呼ばれ、今や中央画壇にも名の知れた画家になった。貧しさに耐え、成功をつかんだジャパニーズドリーム、とみえるが、渡辺にとっては違う。

 「炭焼きやってたころが、いちばん幸せだったなぁ…」

 高度経済成長が始まり、人々がカネのため、モーレツな競争に明け暮れていたころ。

 山中の夜、渡辺はしばしば大きな何かに包み込まれているような感覚を覚えたという。比べて、自らの何と小さいことか。嫉妬や、功名心とは無縁に、だれに見せるでもない絵を不乱に描く。そんな幸せ。「浴びるように電気を使う生活では分からん」

 木々や獣、虫たち、それらを包み込む何か…。渡辺が向き合ってきた山は単なる緑ではとても表現しきれない。だから「黒い」。

 「石ころや名も無い草にも心を寄せて描いている」。そんなふうに渡辺を評し、その絵に魅せられた男がいる。二〇〇四年、八十五歳で亡くなった小説家、水上勉(みずかみつとむ)。同じおおい町(旧本郷村)出身で、代表作「飢餓海峡」などで知られる。

 二人の出会いは一九七〇年。絵にほれ込んだ水上が渡辺の自宅をたずねた。以来、友情を結び、渡辺は数多くの小説の挿絵を手掛けることになる。絵と文字。その違いはあれど、水上もまた、故郷を描き続けた作家だった。

 全国最多の原子炉十四基が集中立地する若狭湾。水上は故郷が“原発銀座”と化したことをずっと憂えていた。昨年七月、福島第一原発事故後初めて再稼働したのは地元の大飯原発3、4号機。渡辺はふと思う。「先生が生きてたら、どう感じたやろ」

 原発がもたらす豊かさに疑いの目を向けた水上。七十歳近くで書いた小説「故郷(こきょう)」には、自らの思いを重ねるようにこんな一節が入っている。

 「ごらん、遠くに岬がみえて、白いドームが空明かりの下にある。(中略)あれが、原子力発電所の明かりだ。(中略)大自然は、そんな文明の発電所さえろうそくの明かりぐらいに小さく抱えてだまっている。静かな静かな海だ」

 渡辺にはよく分かる。「原発はしょせん、人がつくったもん」。そこに大きな何かは感じない。渡辺に原発の絵は少ないが、最近、知人に頼まれ、やむなく描いたときは周りを暗く塗った。「黒い」のではなく「暗い」。渡辺の目にはそう見える。(文中敬称略)

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 経済再生に重きを置くアベノミクスを追い風に、原発再稼働に前のめりな安倍晋三政権。「犠牲の灯(あか)り」第4部では、水上の小説「故郷」を手がかりに、原発が変貌させた故郷に戸惑い、悩む、滴(しずく)のような小さな声を福井・若狭から報告する。(取材班=寺本政司、酒井和人、杉藤貴浩、帯田祥尚、写真は内山田正夫)

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<第4部「若狭の滴」> (関連特集)

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/akari/list/CK2013052702000206.html

 たとえ事故が起きずとも原発はそこにあるだけで多くのモノを奪う-。こう訴えた小説家、故・水上勉(みずかみつとむ)(一九一九~二〇〇四年)は、カネで測れる豊かさと「一滴の水」にも意義を見いだす日本人の精神風土が相いれないことを喝破していた。「原発銀座」と呼ばれる水上の出身地、福井県若狭地方でも原発がもたらす豊かさと引き換えに、古くからの伝統や風俗、“人の心”は変わりつつある。「犠牲の灯(あか)り」第四部の連載開始にあたり、小説「故郷(こきょう)」の舞台を歩いた。 (文中敬称略)

 小説「故郷」の新聞連載が開始されたのはほぼ四半世紀前。

 架空の集落「冬の浦」のモデルとみられるのが京都府との境、福井県高浜町の内浦地区。物語の「今」を見るため、足を踏み入れると、作中に迷い込んだかのような美しい景色が広がっていた。

 町の中心部から北西に九キロ。曲がりくねった道を車で二十分ほど行くと、いくつもの集落が点在する。

 釣り船が行き交う穏やかな海に、すり鉢をかぶせたような新緑の山々。傾斜地にしがみつくように家々が並び、棚田を支える石垣は長い風雪をしのばせる。雄大な眺めの奥に、原発のクリーム色の建屋が見えてきた。

 「あれがなきゃ、最高の眺めなんだが」。木工職人の土本保(64)が漏らす。

 この地で関西電力高浜原発1号機が稼働したのは一九七四年。以来四十年近く、人々は原発と背中合わせで暮らしてきた。土本の自宅からは、内浦湾を隔てた四キロ先に、四基まで増設された原発すべてが見渡せる。「もう慣れてしまったがな」

 町では当初、原発誘致には反対もあった。建設予定地に近い集落では計画中止を求める署名活動も起こり、東海原発が稼働していた茨城県東海村へ視察に行く住民らもいた。

 だが、大阪や名古屋などの大都市圏から遠く、山と海に囲まれた若狭の貧しさを、土本は「役場職員の給料も払えんほどだった」と思い出す。予定地に田んぼを持つ農民たちは次々と買収に応じ、穏やかな海岸に原子炉のドームが並んでいったという。

■ 発展の功罪

 「山はけずられ、半島に橋はかけられ、町役場や公共建物は鉄筋となり、道路はすべてアスファルトとなり、山には何百本もの送電塔が林立して…」

 「昔に比べたら、本当にくらしよい村になったよ(中略)格段の発展ぶりだ」

 小説「故郷」の中で、蓮昌寺の玄堂和尚が述べた町の急変ぶり。

 現実の若狭もそうだった。山を一直線に貫く長大なトンネルや照明塔付きの競技場などインフラの充実ぶりが目を引いた。

 内浦地区で代々農業を営む永野千太郎(64)は「高浜原発ができて、町には毎年巨額のカネが入ってきた。道路が良くなり、みんなマイカーを買った」と話す。農業だけでなく、都市へ出てサラリーマンになる住民も増えたという。

 「だがな、村の雰囲気も変わっていってしまった」と永野。集落総出でやっていた春、秋の水路掃除に加わる人は減り、共同作業だった農地の手入れも「草刈り機でけがをしたら、補償はどうなる」という声に押されてなくなった。

 美しい山里も徐々に荒廃していった。古来、内浦は筋の良い竹の産地として知られたが、竹林で間引きをする人材が絶え、立ち枯れた竹でうっそうとする森が増えたという。

 「プラスチック製品が大量に出回り、竹細工の品は見向きもされんくなった。職人たちもいなくなった」と永野。数年前から地元有志で竹林整備に取り組んでいるが「竹の安全な切り方から覚えんといかん」と話す。

 雄大な自然や、日本人が長く築いてきた歴史や伝統の前ではちっぽけな存在にすぎない原発が故郷を変容させていく。小説の玄堂和尚は町の発展に目を細めながらも、こう戒めていた。

 「そうや、原発も花火のひとつや…すぐ消えてしまう」

■ 福島の衝撃

 「謙吉は、文明のおばけだといってたっけ」「…発電炉はぼくらが死んだあとも燃えつづけてゆく。燃える棺桶(かんおけ)だ」

 「故郷」は「終(つい)の棲家(すみか)」を求め、若狭路を旅する中年夫婦の物語。二人とも大自然に抱かれた老後を夢見るが、夫はそれとまったく反する原発の存在が気にかかる。謙吉は米国で一緒に暮らす長男だ。

 現実の内浦地区も目と鼻の先にある原発と運命をともにしなくてはならない。二年前の福島第一原発事故は、住民にあらためてその現実を突きつけた。

 農家の永野は「高浜で福島のようなことが起きれば、耕作どころの騒ぎじゃないと実感した」と衝撃を語る。

 高浜町は昨年、被災地のがれきを受け入れることを決め、焼却灰の埋め立て場のある内浦地区では賛否が入り乱れた。結局がれきの総量が減ったことで受け入れは中止になったが、永野は当時、容認の立場だったという。

 「福島事故で絶対安全というのはないと分かった。でも、わしらは安全だというデータを示されたら信じるしかない。そうでないと、ここには住んでいけんから」

 内浦にある正楽寺。数年前から無人になり、住職は京都府舞鶴市の古刹(こさつ)・松尾寺の松尾心空名誉住職(84)が兼任する。松尾は生前の水上勉とも親交があった。

 「彼は、『一枚紙の暖かさ』という体験談を好んで語っていました」と松尾。「冬の寒い日、板の間に正座する足の下に一枚の新聞紙を敷いてみた。それが驚くほど暖かく、彼は、ひもじいからこそわずかな豊かさが身に染みるという真理を実感したそうです」

 「故郷」の連載は旧ソ連チェルノブイリ原発事故の直後に始まった。執筆当時、水上は「原発は怖いもんや。できたもんはしゃーないけど、これ以上、大きくならんようにせんといかん」と語っていたという。

 作品を通じ「故郷とは何か」「豊かさとは何か」と疑問を投げかけた水上。その問いは福島の事故後、いや事故後だからこそ、原発を背負い続ける若狭で、いっそう鋭く響いている。

 (ゴシック体の引用部分は集英社文庫「故郷」から)

 <物語のあらすじ>

 ニューヨークの日本料理店で成功した芦田孝二とその妻、富美子。米国生活が30年に及んだ中年夫妻は老後を日本ですごそうと「終(つい)の棲家(すみか)」を求め、富美子の故郷、若狭を訪れる。ところが、美しい里は原発の建設ラッシュに沸き、夫妻は急変した町や人々の暮らしぶりに戸惑う。豊かさと引き換えに故郷が失ったものは何か。久しぶりに再会する親戚や旅先で知り合った蓮昌寺の玄堂和尚らとの触れ合いなどを通じ、それは明らかになる。

 「故郷」は1987年から福井、京都新聞など地方紙12紙で連載された新聞小説。挿絵は渡辺淳(すなお)が担当した。97年に書籍化された。

◆<創作の背景>貧しい生い立ち モノより心 

東京・銀座で取材に応じた生前の水上勉さん

 過疎や貧困にあえぐ人々の姿を描き、豊かさを追う戦後の高度成長に警鐘を鳴らし続けた水上勉。その作品のルーツは自らの生い立ちにある。

 生家は福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)の外れ。大工の父と母、全盲の祖母、兄弟四人の大家族で、生活は苦しく「母がよその田仕事をして賃米をもらうのが一家の食糧だった」(「私の履歴書」)。父は仕事の合間に家で棺おけをつくり、窮状をしのいでいた。

 貧村が多かった福井南部の若狭地方は長男を除いて男子は京都や大阪へ出て丁稚(でっち)奉公、女子は女中奉公になることが多かった。水上も九歳の時、口減らしのため京都の禅寺へ小僧に出されている。

 青年期に寺を飛び出し、飢えをしのぐため戦前の満州国(中国東北部)で働いたことも。戦後も生活は一向に上向かず、東京で服の行商など職を転々としながら、ようやく作家として認められたのは四十歳前後だった。

 このころ日本は高度成長の真っただ中。豊かさを増す都会とは対照的に、地方はその代償として人、モノ、カネを奪われ疲弊する一方だった。

 代表作「飢餓海峡」で取り上げた北海道、下北半島、若狭の街もそう。ところが、それら貧しい過疎地はまるで何かの暗示だったかのようにそろって原発を受け入れる。当初は原発問題を避けてきた水上だが、晩年は向き合い、原発マネーで変容する故郷に対しても厳しい見方を示した。

 水上と十年近くつきあいのある文芸評論家で、法政大教授の川村湊(62)。「プライベートで原発の話題が出たことはない」としながらも「貧しい境遇だった水上さんにとって故郷が豊かになるのはうれしい。が、だからといって原発ではないでしょう、という複雑な気持ちがあった」と話す。

 川村は原発を取り上げた水上作品に「故郷」以外に「金槌(かなづち)の話」と「鳥たちの夜」を挙げる。「例えば『金槌の話』で原発道路に吐かれたゲロは作業員の被ばくを表す隠喩(いんゆ)。声高に原発を批判するのではなく、静かな低い声で語りかけ、読者に考えさせている」

 一方、水上の厳しい目は電力を消費する都市部へも。二十年以上秘書を務めた写真家、水谷内(みずやち)健次(69)によると、講演会では「この電気は私の田舎から送ってきているんだ。いろんなリスクをしょって原子力発電をやっている。無駄にするな」というのが口癖。昼間なのに照明をつけていた会場で腹を立てたこともあったという。

 晩年、仏教への関心を深めた水上。福井県敦賀市の高速増殖炉を「もんじゅ」、新型転換炉に「ふげん」=廃炉作業中=と名付けた時に「よりによって仏様の名前をつけるなんて何事か」と怒った。

 その仏教を通じ、水上と親交を深めたのがおおい町に隣接する福井県小浜市の明通寺住職、中島哲演(てつえん)(71)。

 「水上さんは『かつて丁稚や女中を送り出していた若狭はいま電気で奉公している』と嘆いていた。原発が都会と地方の構造的な差別と歴史の上で成り立っていることを見抜いていた」

 福島第一原発事故後、原発ゼロへなかなか踏み出せない日本。川村は「水上さんは文学者の直感として原発に反対した。そうした人間の素直な感情をもっと大切にすべき時ではないか。科学や経済論理だけでは、原発のような化け物はなくならない」と話す。

◆<故郷の文庫>「水一滴」に託す願い 

水上さんが故郷に建設した若州一滴文庫=福井県おおい町で

 水上勉の精神は今も故郷、福井県おおい町に息づく。重厚な柱や梁(はり)を使った木造建築と和風庭園が調和する「若州一滴文庫」。水上が還暦を過ぎた一九八五年、私財を投じて設立した。

 七千平方メートルの敷地に、本人が創作に使った資料などを含む二万冊の蔵書を収めた本館や竹人形劇を上演する劇場などが立つ。

 「一滴」の名は、地元の高僧の逸話に由来する。手おけに残った水を無造作に捨てた小僧を「日照りで木や草が泣いている声が聞こえないのか」としかり、水一滴の価値を説いたという。

 昔から水不足に苦しんできた若狭。雨をためて飲み水とするような苦労を肌身で知る水上は、この話に深く感銘を受けた。

 「この雲水(小僧)は、小さな滴のなかにも全宇宙が映っている、そういうようなものを悟ったかもしれない」。水上は逸話をさらに進め、どんなに細かなものごとの中にも、森羅万象を物語る真理が潜んでいるとの境地にたどりつく。

 老いてなお故郷・若狭を愛した水上。随想集「若狭海辺だより」(八九年刊行)所収のエッセーにこんなくだりがある。「これから生まれてくる所在の小さな子らのための、うつくしい海と幸。それをのこしておいてやるのが、大人のつとめではないか」

 そのエッセーは「再びチェルノブイリを憶(おも)う」という題だった。

◆<息づく伝統>遠野と並ぶ民俗学の宝庫

大島に残る「ニソの杜」の一つ。老齢の巨木のそばに小さな社が立っていた=福井県おおい町で

 若狭地方は、古くからの伝統や風俗を色濃く残してきた。人々は山海の広がる明媚(めいび)な地で“神”を身近に感じながら暮らしてきた。

 高浜原発を眼前にのぞむ内浦地区では十一の集落があり、それぞれに神社がある。十一社すべてで神主を務める山下暢以知(ちょういち)(58)によると、平安中期に編さんされた神名帳「延喜式」にも内浦地区を含む「青の郷(さと)」という地名が登場しているという。

 平城京で発見された木簡には「青の郷」から鯛寿司(たいずし)が納められたという記述がある。少なくとも千三百年以上前から人々が歴史をつむいできた。

 長く国の中心だった京都に近く「若狭富士」と呼ばれる青葉山を後背に日本海に面した地勢。十一社のうち、八社が山の神、三社が海の神を祭り、天の恵みに日々、感謝をささげていた。

 ただ、そうした信仰心も近年は薄れつつある。

 「あと十数年もすれば、人がいなくなってしまうのではないか」。山下は内浦の集落を訪れるたび、不安を覚えるという。

 四十代以下の若い世代が都市に出て行ってしまい、残った若者たちも結婚相手が見つからないケースが少なくない。子供たちが遊ぶ声はめったに聞こえてこない。「神事などの集まりを開いても、まるで老人会のよう」と山下。

 「原発ができて、そこで雇用も生まれたが、結局、人が減る流れは止められなかった。原発が明るくした都市へ人は出て行った」と嘆く。

 「若狭は日本で遠野(岩手県)と並ぶ民俗学の宝庫」。こう解説するのは福井県美浜町出身で、敦賀短大非常勤講師の金田久璋(ひさあき)(69)だ。

 例えば、旧正月の行事「キツネガリ」。若狭地方の美浜町や小浜市の約十カ所に残っている。旧正月に子どもたちが独特の掛け声を唱え集落を回る風習で、野を荒らし人にとりつくとされるキツネを追い払おうとした人々の願いがこもる。

 高浜町や美浜町に伝わる「餅なし正月」も珍しい伝統。内浦地区の上瀬集落の場合、各戸が「節(せち)組」と「雑煮(ぞうに)組」に分かれていて、「節組」は元日にもちを食べることを禁忌とする。「火事を起こしたペナルティー」「畑作文化の地に稲作文化が伝わった際の抵抗感を伝えたもの」などの説がある。

 そして、金田が民俗学的に最も注目しているのが「ニソの杜(もり)」だ。

 大飯原発が立地する、おおい町の大島半島に残る照葉樹林。大島の伝承によると、昔、島を開拓した先祖二十四氏を祭っているという。現在、半島に三十二カ所が確認されており、それぞれ管理する家が決まっている。毎年十一月二十二日の夜から二十三日の朝にかけて祭礼を行い、神田から収穫した新米などを供えるのが習わしだ。

 伝承は少なくとも平安時代にまでさかのぼる。ニソは「二十三」からとの説が有力で、日本民俗学のパイオニア、柳田国男も高い関心を示していた。柳田は在野の民俗学者、安間清にあてた一九五〇年三月五日付の手紙にこう記している。

 「若狭大島の大いなる意義はニソウ即(すなわ)ち十一月二十三日を以(もっ)て先祖の祭をすることにて小生などは全く是あるが為に幾らも残らぬ老後の時間を費やすに足るとまで致し居候」

 当時、柳田は高齢で結局、さしたる成果は残せなかったが、今も一級の研究対象として知られる。しかし、その杜もやはり風化の危機にさらされている。

 金田によると、確認されている三十二カ所のうち、現在も祭礼が続いているのは三分の一に満たない。

 「八百万神(やおよろずのかみ)というように、あらゆる自然の中に神を見いだし、畏れ敬ってきたのが日本人。ところが、戦後の高度成長期以降、豊かさを追い求めるうち、自然を制御できるものと考え、そうした心を失ってしまった」と指摘する。

 自然を敬う心と引き換えに得た豊かさの象徴が都会ではニュータウンであり、高速道路。大島では、それが原発だった。

 里山を荒廃から守ろうという動きは各地で広がる。が、自然や野生生物の保護に目は行くが、その精神性に踏み込む民俗学的な視点は忘れられがち。

 「人々は民俗学的な信仰や思想があるからこそ、自然と共生し、自然を守ろうとしてきた」と金田は説明する。

 東日本大震災や福島第一原発事故は、人々のきずなの重要性をあらためて知らしめた。地域の伝統の祭祀(さいし)行事は、コミュニティーを強固にする役割もある。金田は言う。

 「今こそ、日本人の本来の精神が注目されなければならないのではないか」

◆<立地自治体の現状>原発頼み 抜けきれず

 “原発銀座”若狭が全国の注目を集めたのは昨年七月。福井県おおい町の関西電力大飯原発3、4号機が、福島第一原発事故後初めて再稼働に踏み切った。政府や関電の求めに応じた町も世論の厳しい批判にさらされた。

 苦渋の選択-。他の原発立地自治体に先駆け、再稼働に同意した町議会で、当時議長として意見をまとめた新谷欣也(56)は、苦しい胸の内をこう述べた。

 難しい決断は、原発マネーにどっぷりつかる町の事情と無縁ではない。

 人口わずか八千八百人弱のおおい町は二〇一一年度の一般会計予算が百十億円もある。このうち、電源三法交付金や核燃料税交付金、関電の法人税、固定資産税など原発関連が半分以上。さらに、十三カ月間に一度の定期検査では、工事の下請け業者から飲食、宿泊業まで関連雇用は数千人に及ぶとされる。

 原発を誘致する前の一九六五年の一般会計は一億三千万円余り。町財政は原発四基が追い風となり、単純計算で約八十倍に膨らんだことになる。

 事情は、やはり原発四基を抱える高浜町も同じ。町議会は福島原発事故からわずか半年後の二〇一一年九月、国に再稼働と原発維持などを求める意見書を可決した。

 意見書を提案した町議の粟野明雄(63)は「幸か不幸か、町は原発と切っても切れない仲になっている」と説明。「町民の中から早く動かせという声を直接何度も聞いた」と話した。

 自民党政権へ代わった今年、町長の野瀬豊(52)は国への陳情で「原発の長期停止が地域の町づくりに大きな影を落としている」と訴えた。地元では、原子力規制委員会が新規制基準を発表する七月以降、関電が高浜3、4号機の再稼働を申請するとの見方がくすぶっている。

 「町には“原発さまさま”という意識が染み付いている。明日の生活のため背に腹は代えられないという気持ちも分かるが、将来を考えれば、いつまでもこんな状況でいいのか」。そう疑問を示す元町議、池田康信(71)の意見は今のところ少数派だ。

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