【中日新聞・特集「日米同盟と原発」】第10回「証言者たち」

特集これにて終了らしい。

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第10回「証言者たち」 戦前~冷戦期(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000227.html

被爆国・日本がなぜ原子力推進を国策として掲げ、世界有数の原発大国となったのか。福島第一原発事故後に誰もが感じた、その根源的な謎に迫ろうと、戦前から東西冷戦が終結する一九八九年までの原子力史を検証したシリーズ「日米同盟と原発」。ほぼ一年にわたる関係者数百人への取材と、膨大な米外交文書などから浮かび上がったのは、日本の原発が戦後政治の基軸だった日米関係と密接に結びつきながら肥大化した事実だった。シリーズ第十回は、主だった関係者の証言からあらためて「過去」を振り返り、原発の「現在」そして「未来」を考える。

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第10回「証言者たち」 第1回・幻の原爆製造より(2013年6月12日)http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000226.html

戦時下の日本で、極秘裏に進められた原爆製造計画「ニ号研究」。戦局の一発逆転を狙って陸軍が主導したが、計画は頓挫した。開発責任者を務めたのは原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者、仁科芳雄氏だった。(2012年8月16日付紙面掲載)

理化学研究所に造られた原子核分裂の実験装置をバックに記念撮影するニ号研究のメンバーら。戦後、GHQにより破壊された=仁科記念財団提供

 「ニ号研究」のメンバーだった学習院大名誉教授の木越邦彦さん(93) 「研究当時は、具体的に原爆が完成するというイメージはなかった。空想で、漫画的に考えていた。それは、仁科さんも同じだったと思う。軍から研究を続けるための費用をもらえればいいというのが本音だったのではないか」

 「原爆がどんな被害を及ぼすかについては研究者の間で多少話題にした。終戦後、英国の新聞社に『もし、日本が核爆弾を米国より先に造っていたら使ったのか』と聞かれたので『もちろん』と答えたら、ある大学の先生から怒られた。当然のことを言っただけだと思っている」

木越邦彦さん

 仁科氏の次男で、名古屋大名誉教授の仁科浩二郎さん(81) 「父は原爆が戦争中にはできないと思っていた。戦局が悪化すると『こんなに苦戦しているのにお金を使って…』と気にしていた。ただ『(日本という)船が沈みそうになっている。自分も乗っているなら、成果は別として手で水をかき出す』とも語っていた」

 「終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)から『原爆を造った米国人を憎まないのか』と聞かれ『私自身、日本の原爆製造の責任者だ』と答えていた。父は原爆投下直後『生きて帰れないかもしれない』と言い残し、広島に調査へ向かった」

 陸軍の指示により、福島県石川町でウラン採掘の学徒動員に駆り出された有賀●(きわむ)さん(82) 「毎日、麦飯やイモの弁当を持って十キロ離れた採石場まで歩いた。わらじをはいた作業で血を流しながら働く人もいた。休みは雨の日だけだった」

 「勲章を着けた軍人から『君たちの掘っている石がマッチ箱一つ分くらいあれば、ニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい』と言われた。戦前の軍国主義と『原発は安全』と唱えてきた原子力政策は今、だぶって見える」

 【注】●は究の下部分「九」を丸に

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第10回「証言者たち」 第2回・封印された核の恐怖より(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000225.html

 太平洋戦争末期、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」だった。ところが、米国は占領下の日本で厳しい報道管制を敷き、大量被ばくの実態を公にしようとしなかった。原子力につきまとう隠蔽(いんぺい)体質は以後の歴史でも繰り返される。(2012年9月25日付紙面掲載)

被ばくした女性を診察するABCCの米国人医師。医療ではなく、原爆の効果を調べる軍事的な意味合いが強いとされた=全米科学アカデミー所蔵、広島市立大講師の高橋博子さん提供

 広島原爆で被ばくし、被ばく者医療を続ける医師の肥田舜太郎さん(96) 「米国が力を入れたのは放射能の被害を隠すことだった。実態が明らかになれば、二度と原爆を持てなくなることを恐れたのだろう。被ばく者を診察していると、米軍から『何か意図があるだろう』と圧力を受けた。米国は被ばく者を厳重な監視下に置きたかったようだ」

 「米国がしっかり調査し結果を公表していれば、被ばく者医療の質は格段に向上していたはずだ。核の非人道性が隠されたことで、その後、日本は原発をすんなりと受け入れてしまった。福島第一原発事故後の対応を見ていると、放射能の危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じだ」

肥田舜太郎さん

 広島原爆で被ばく後、米国人から健康状態を調べられた高橋昌子さん(84) 「終戦から六年後に長男が生まれた後、知らない米国人二人がジープで自宅に訪れた。私と子どもから採血し、枕元に手みやげのせっけんを一つ置いて帰っていった。『原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査です』と言ったきり、今も連絡はない」

 「自分が被ばく者だと知ったのは三十年以上たってから。それまで体の不調は体質のせいだと思っていた。福島原発事故で、国や自治体は『大丈夫です』と繰り返すだけ。住民に情報が隠されているという状況は変わらない」

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第10回「証言者たち」 第3回・被ばくの記憶 原子力の夢より(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000224.html

 独立を回復した日本。占領中禁じられた原子力研究の再開を許されたが、反対したのは戦争に加担させられた科学者たちだった。広島原爆で被ばくした広島大の三村剛昂(よしたか)教授は日本学術会議の総会で「原爆の惨害を世界中に広げることが日本の武器。文明に乗り遅れるというが、乗り遅れてもいい」と涙ながらに訴えた。(2012年11月7日付紙面掲載)

 三村教授の弟子で、名古屋大名誉教授の沢田昭二さん(81) 「先生が私と同じ被ばく者であることは知っていたが、二人で原爆の話をした記憶はない。被ばく者同士というのはそういうものだ。先生が反対したのは『広島、長崎の実態が学者に正しく伝わっていない』という強い危機感だったと思う」

 「当時の科学者は、原爆は核の悪用だがエネルギー源としては役立つと考えていた。科学者が統一の見解を出せない構造的な問題もあった。その後、政治主導で安易に原発が導入され福島第一原発事故が起きてしまった。先生が生きていたら『心配していた通りになってしまった』と思われるかもしれない」

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第10回「証言者たち」 第4回・ビキニの灰より(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000223.html

広島、長崎原爆投下から9年後、日本は再び核の悲劇に襲われる。太平洋のビキニ環礁沖で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が米軍の水爆実験に巻き込まれ、乗組員23人全員が「死の灰」を浴びて被ばくする。最年長の無線長、久保山愛吉さん=当時(39)=は亡くなるが、米国は「原因はサンゴの粉じん」などと放射能との関連を否定。日本政府も追認する。(2012年12月25日付紙面掲載)

◆第五福竜丸の冷凍士、大石又七さん(79)
「久保山さんが亡くなり死というものを覚悟した」と話す大石さん=山梨県笛吹市で

 大石さん 体に異常が出たのは死の灰を浴びてから五週間後。白血球が少なくなってようやく症状が出てきた。久保山愛吉さんが亡くなり、死というものを覚悟した時期だった。

 私たち夫婦の最初の子どもは死産だった。はらわたが煮えくり返ったけど、十年以上隠していた。第二子が健康に育ってくれたので、鬱憤(うっぷん)を晴らすため講演などで、ビキニ事件を話し始めることにした。

 ビキニ事件の当事者は米国だったが、福島第一原発事故は政治家の無知だと思っている。日本は敗戦でがれきまみれになって、復興のため一番金になる原発を手にした。導入の当事者が誰なのか、そのいきさつはあいまいだ。

 太平洋戦争の時と同じで、原発事故も無責任な形で終わらせようとしている。

◆船員だから差別受けた
 操舵(そうだ)手の見崎進さん(86) 「船尾のデッキでちょうど朝食を食べ終え、船員室に戻る途中だった。『バアン』と大きな音がして、なぎだった海が、音でバシャバシャと波打ったのを見た。降ってきた死の灰は白い雪みたいだった。二、三日して髪の毛が抜けたり、手のひらが荒れたりした。腹痛と下痢が続いた」

 「愛吉さんとは入院先でベッドが隣同士。亡くなる直前は錯乱して見ていられなかった。『わしも死ぬのか。今度はわしの番だ』って心穏やかじゃなかった。生きたかったけど、半分生きるのをあきらめた」

 操機手の池田正穂さん(81) 「愛吉さんは『船がドカンと受けたのが米国に知られたら連行される』と漏らしていた。船頭や無線長は米国の核実験と分かっていたかもしれん。でも、焼津に帰るまで、事情を無線で伝えなかった」

 「愛吉さんは入院中、ひげをそってやったら喜んでよ、良い兄貴みたいでね。わしが退院してから、ぼちぼち乗組員が亡くなった。みんな肝臓がやられた。放射能は得体(えたい)が知れん」

 「実家のあんこ屋に来た客が『あそこの若いのが福竜丸乗っていたよ』と聞いて、買ったあんこを川に捨てたのを見た。地元にいられなくなり、京都で働いた」

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第10回「証言者たち」 第5回・毒をもって毒を制すより(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000222.html
 ビキニ事件後、米国は日本のマスコミを巻き込んだ原子力平和利用キャンペーンを大々的に展開する。列島を覆った「反核」「反米」世論を沈静化するためだった。この後、平和利用の名の下に、英国から技術導入する日本初の商業用原子炉、東海原発(茨城県東海村)の建設が事実上決まる。その中心的役割を担ったのが初代原子力委員長を務めた読売新聞社主、正力松太郎氏だった。(2013年1月23日付紙面掲載)

1956年5月、広島市中区の原子力平和利用博覧会会場。平和記念資料館を改装し、期間中、11万人が訪れた=中国新聞社提供

 当時、若手官僚として正力氏に仕えた科学技術庁(現・文部科学省)の元事務次官、伊原義徳さん(89) 「私たち若手グループが正力さんに『イギリスの原発では採算がとれない』と報告したら『木っ端役人はだまっとれ』と怒った。効率的に発電する米国からの技術提供を待った方が正解だと思ったが、彼は待ちきれなかったようだ」

 「一言でいえば怪物。ひたすら結果を求め、小さな抵抗や障害ははねのけて、ぐんぐん前に進んだ。『おれは事業家だ。プロ野球をビジネスとして確立し、テレビ事業も軌道に乗せた。三番目の仕事は原子力の平和利用に道筋をつけることだ。もたもたしていられない』と繰り返し言っていた」

 「国民のためにエネルギーを供給するというより、決めたことを成し遂げるという事業家としての使命というか、センスが正力さんを突き動かしていたんだと思う」

 正力氏の側近で、原発導入に関わった元日本テレビ専務、柴田秀利氏の妻、泰子さん(83) 「正力さんからは多いときで週二回ほど夜に電話があった。翌朝に、そのとき話したことを幹部の方に訓示していたみたい。主人は、あの方に知恵を吹き込めばブルドーザーみたいに動いてくれると分かっていたのだと思う」

 「主人は原子力を毒と呼んでいたが、毒でも米国の力でも、使えるものは何でも使わないと戦後復興することなんてできなかったと考えていた。原子力の危険性を認識していたからこそ、亡くなる間際まで次世代の核融合エネルギーへの関心を持っていた」

 小学生時代、米文化交流局(USIS)などが主催した広島の原子力平和利用博覧会を訪れた被ばく者の佐久間邦彦さん(68) 「印象的だったのはマジックハンド。『こうやってロボットを操れば、危険な放射能を安全に扱えるのか』と、米国の技術力の高さに感心した。科学技術に興味を持ち、三菱重工業広島製作所に就職した。原発や高速増殖原型炉もんじゅの構内で排気筒の製造に携わったこともある」

 「小学校時代は原因不明の体調不良に悩んだ。放射能の恐ろしさはよく分かっていたはずなのに、博覧会をきっかけに原子力に幻想的なイメージを持った。今思うと、米国の思うつぼだった」

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第10回「証言者たち」 第6回・アカシアの雨 核の傘より(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000220.html
 日米安保条約の改定で、日本は米国の「核の傘」に入った。列島を熱くした安保闘争は岸信介首相を退陣に追い込んだが、原発には触れずじまいだった。中国が核実験に成功すると、岸氏の実弟、佐藤栄作首相の下で、原発技術を利用した「潜在的な核保有」がひそかに検討された。(2013年2月26日付紙面掲載)

水素爆発で建屋が吹き飛んだ福島第1原発3号機=2011年3月24日(エア・フォート・サービス提供)

 東京大助手として六〇年安保闘争に加わった物理学者の小沼通二(みちじ)さん(82) 「今、考えれば、原発のサイクルは『作って、使って、片付ける』という基本ができていない。だけど当時は核のごみの問題がいつまでも尾を引くと見抜けず、反原発を安保闘争のテーマに結び付けられなかった。私たち科学者は進む方向を間違えたとまでは言わないが十分に見極められなかった」

 佐藤政権下で日本の核保有について検討した研究会を立ち上げた内閣調査室(現・内閣情報調査室)の志垣民郎さん(90) 「六四年の中国の核実験を機に、内調は危機感を持った。研究会に参加する学者の人選は、まず私が親しくしていた(東京工業大教授の)永井陽之助さんに声をかけて、他のメンバーの垣花秀武さんと前田寿さん、?山(ろうやま)道雄さんを紹介してもらった。彼らの頭文字をとって『カナマロ会』と命名した」

志垣民郎さん

 「内調が出した結論は『日本は米国の核の傘に入り、核保有のポテンシャル(潜在能力)を維持すべきだ』。佐藤首相には室長が報告書を手渡した。首相には『核武装をするのはなかなか大変なんだよ』とたしなめられたそうだ」

 外務省で核武装を検討した元科学課長の矢田部厚彦さん(83) 「日本が核を持つことを米国は許さないので、当時も今も核武装は現実的なオプション(選択肢)ではない。ただ、その可能性があるふりをする、ポテンシャルを持つことはいい。その方法が、原子力技術を高めることだった」

 「日本原子力発電の今井隆吉は旧制府立高校(現・首都大学東京)の同級生でよく相談したが、彼は『原爆を造る方が原発を造るより簡単だ』と言っていた。核ミサイルを造らなくても抑止力にはなる。福島事故後に原発ゼロが議論されたが、ナンセンスな話だ。国際社会ではいつどんなことが起きるか分からない」

 佐藤元首相の長男、佐藤龍太郎さん(85) 「おやじは(“ロケット開発の父”と呼ばれた東京大教授の)糸川英夫先生と親交があり、家庭教師のような存在だった。ただ、糸川先生のロケット技術と原子力とを結び付けて考えてはいなかったと思う。戦後の日本人が抱いた核兵器に対する恐怖感を同じように持っていた」

 「おやじが核保有を検討して出した答えは『持たない』ではなく、『持てない』ということだった。核開発をやるには、当時のインドのように経済発展を犠牲にしなければならないと考えていた」

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第10回「証言者たち」 第7回・油の一滴は血の一滴より(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000219.html
石油ショックに襲われた日本。田中角栄首相は経済大国になったジャパンマネーを武器に、海外からエネルギー源を買いあさる資源外交を展開した。国内では電源3法交付金制度を創設し、原発立地に国が関与する推進体制を築いた。それは、地域振興を名目に、巨額の税金が立地自治体へ流れ込む原発の利益誘導システムでもあった。(2013年3月26日付紙面掲載)

1977年7月、体を洗浄した後、放射線量をチェックする敦賀原発の作業員ら=樋口健二さん撮影

 田中元首相の秘書官を務めた通商産業省(現・経済産業省)の元事務次官、小長啓一さん(82) 「田中さんが首相に就いて石油ショックが起きた。そこで『脱中東、脱石油』を言いだした。資源、エネルギーへの思い入れは強烈だった。昔から『油の一滴は血の一滴』が口癖だった」

 「初めて対面した時に『雪といえば、君たちは川端康成の小説のようなロマンチックな世界だと思っているだろうが、俺は違う。生活の闘いなんだ』と言っていた。過疎地振興への思いは並々ならぬものがあった」

 元首相の地元で、東京電力柏崎刈羽原発を誘致した新潟県柏崎市の小林治助元市長の長男、正明さん(72) 「父は『柏崎で発電しても東京で電気を使えば、税金は東京に入る。恩恵を受ける方に税が入り、発電所を受け入れた方には事故があっても何もない』と言っていた。東京・目白の田中邸を週一回のペースで訪ね、田中さんに『この矛盾をなくさないと、原発の立地は進まない』と訴えていた」

 「電源三法交付金の法案提出にこぎつけた一九七四年、田中さんは東南アジア外遊に向けて自宅を出発する際、見送りに来た父を見つけ『やったぞ』と大声を上げたそうだ」

 当時、原子力開発本部の社員だった東電元取締役の宅間正夫さん(75) 「当時は原発への反対運動も激しかったので、国がカネを出してくれる電源三法交付金は電力会社にとってありがたい制度だった。ただ、政治家などが口利きをする場面が増えた面はあるかもしれない」

 「最近、電力会社の中に『電源三法でカネをもらっているんだから、地元住民は文句を言うな』という人がいるが、残念だ。昔は『公益事業を民間が担っている』というもっと高い理想があったのに…。世代が進むにつれ、その精神が失われている」

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第10回「証言者たち」 第8回・勝者の驕りより(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000218.html
 泥沼化したベトナム戦争とウォーターゲート事件で威信に陰りが見えた米国に、カーター大統領が誕生した。核不拡散政策を掲げ、米国自ら使用済み核燃料の再処理や、高速増殖炉開発など最先端の原子力開発から事実上撤退することを表明した。その厳しい目は同盟国・日本の原子力にも向けられた。(2013年4月26日付紙面掲載)

◆カーター元米大統領(88)
「政治家は自分の犯した間違いをなかなか認めないものだ」と、本紙の単独インタビューで話すカーター元大統領=2012年1月15日、米ジョージア州アトランタ郊外の自宅で(長田弘己撮影)

 米国には発電ではなく、技術蓄積を目的とした高速増殖炉の実験炉がいくつかあったが、開発費用が巨大で、技術的にも仕組みが複雑だった。私は原発や関連施設はできるだけシンプルな構造がよいと思ったし、国家予算を考えれば、計画を中止する必要があると考えた。当時、私の考えに多くの人が反対したが、葬り去った。

 使用済み核燃料の問題については、米国も十分な解決策を見いだしてはいない。最終的な解決策はやはり地中深くに埋めて貯蔵することだと思うが、政治的に不可能ならば、われわれは原発構内で保管を続けることになるだろう。

 私は、原子力政策にはルールや規制の順守を徹底させる政府の行政機関があること、原発の安全性に対する監視と原発運転員の訓練を義務付けることが大切だと思っている。

 自分の経験から言うと、政治家は自分の犯した間違いをなかなか認めないものだ。政府高官は深刻な過ちがあったと知った時点で、たとえ不利なことであっても事実を公表しなければならない。その上で日本政府が将来の原子力計画を決めていくことだろう。

 (二〇一二年一月十五日の本紙単独インタビューで)

◆燃料再処理、世界が懸念
 七七年の日米再処理交渉を担当した元外務省原子力課長の金子熊夫さん(76) 「カーターは世界に再処理の中止を求めた。日本が天然ウランを買っていたカナダやオーストラリアも再処理に抵抗した。『ウランを提供するとプルトニウムにされて自分の国に爆弾を落とされる。日本にだけは輸出するな』と言っていた」

 「米国は、日本がプルトニウムを取り出すときに『混合抽出』という方法を研究・報告することを条件に再処理を認めた。当時、日米間で貿易摩擦の問題があり、米国は再処理で恩を売って経済面で日本の譲歩を取ろうとしたのではないか。こちらが思う以上に米国はトータルで考えていた」

 八一年、日本原子力発電敦賀原発の放射能漏れ事故が起きた当時原電技術部長だった板倉哲郎さん(86) 「トラブルを隠していたと批判されたが、通産省に報告すると結論が出るまでに非常に時間がかかった。原子炉を止めると、一日何億円という損失が出るので、報告するのは簡単ではなかった」

 敦賀原発の事故を取材したフォトジャーナリストの樋口健二さん(76) 「当時、原発内部で働いていた作業員は、親方がハンマーでパイプをたたいたり、鉄板を溶接したりしてひび割れをふさいだことがあると言っていた。いいかげんなことをやっていた。事故はたまたま表に出ただけだ。電力会社は原発を現代科学の粋と言っていたが、作業員の被ばく労働なしに、一日たりとも動かせない」

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第10回「証言者たち」 第9回・漂流する核のごみより(2013年6月12日)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013061202000217.html
原発大国の道をひた走る日本。ところが、増え続ける使用済み核燃料は、核兵器に転用可能なプルトニウムの大量保有という問題を生み出し、国際社会の脅威となる。平和利用とは対極の秘密主義や軍事的な性格を帯び始める日本の原子力。東西冷戦が終結した今も、核のごみは日本に重くのしかかる。(2013年6月5日付紙面掲載)

1987年4月26日、東京・数寄屋橋で行われたチェルノブイリ原発事故から1年の反原発デモ

 八五~八八年の日米原子力協定の改定交渉を担当した元外務省科学技術審議官、遠藤哲也さん(78) 「国防総省や米原子力規制委員会(NRC)は『国家安全保障の脅威』を理由に、青森県六ケ所村の再処理施設に難色を示した。レーガン(大統領)やマンスフィールド(駐日大使)が議員らに手紙を送るなどして説得してくれた」

 「米国は日本が余剰プルトニウムを抱えることを懸念している。福島原発事故の影響で(二〇一八年の)次期改定交渉で『再処理は必要ない』と言われないかと心配だ」

遠藤哲也さん

 当時、駐米大使を務めていた大河原良雄さん(94) 「当時は、激しい日米経済摩擦をなんとかしなければならなかった。一方で、東アジアの安全保障ではソ連、中国を意識しなければならず、米国は日本に強い期待を持っていた。大きな日米関係の枠内で、原子力というのは経済問題であり、政治問題であり、軍事問題であるという難しく特別な意味合いを持っていた」

 政府調査員として交渉団に参加した関西電力元副社長の前田肇(はじむ)さん(77) 「米議会が協定に反対した時は、国務省OBのベンゲルスドルフにロビー活動を頼んだ。米国のメーカーや電力会社にも議員への働き掛けをお願いした。ニューメキシコ州選出のドメニチ上院議員から『米国産ウランを買ってほしい』と求められ、購入契約を結んだ」

大河原良雄さん

 「私は原発が安全だと思ったことも、言ったこともない。機械は壊れるし、人は間違う。そのリスクをいかに最小化するかを考えないといけない。電力会社はそういうリスクに対して謙虚だったかというと、残念ながらそうではなかった」

 日米新原子力協定下の九二年のプルトニウム輸送船「あかつき丸」をめぐり米国と交渉した元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(82) 「米国防次官補のアーミテージは『海上自衛隊を出せ』と言ってきた。しかし、当時の日本は自衛隊の海外派兵はしないというのが不動の方針。米国からは『プルトニウムが国際テロリストの手に渡ったらどうなるかという危機感が薄い』と随分言われた」

 「海上保安庁の巡視船『しきしま』に装備した機関砲は当初二〇ミリだったが、米側の要求を受け入れて三五ミリにした」

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