6/26【犠牲の灯り】<第5部「サマータイム・ブルース」> (3)ファインダー【中日新聞】

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このシリーズ第5部サマータイム・ブルースはいろいろ波乱に満ちている。
一昨日(6/25)の写真の方からご連絡を受けて、記事のPDFを先ほど掲載した。気が付いてるかな?
今回のラストに出現する「小原良子」さんのお名前は「もうひとつの全共闘・芝浦工大全学闘」のブログ上でおみかけした方。
http://blog.livedoor.jp/shibakodai_zengakuto/archives/51689919.html
消息が辿れなかったようだが中日新聞は彼女を見つけたらしい。が、今日は載っていなかった。次回が楽しみ。

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【犠牲の灯り】
<第5部「サマータイム・ブルース」> (3)ファインダー
中日新聞  2013年6月26日
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/akari/list/CK2013062602000225.html

官邸前で、25年ぶりにデモの参加者へレンズを向ける磯さん(左)。今はデモから離れ、福島の被災地を記録することで脱原発の意思表示をしているという=東京・永田町で

 磯桂岳(いそよしたけ)(44)にとって、それは二十五年ぶりの光景だった。

 「原発反対」を連呼する人の群れ。風にたなびく「NO NUKE(核は嫌だ)」の旗。柵の向こうには表情を崩さない警官たちが並んでいる。

 六月十四日の金曜、磯は首相官邸前デモを初めて目にした。現在暮らす沖縄から、仕事で東京を訪れたのを機にのぞいてみたのだ。

 通称「清志郎通り」から流れるロックを耳にして、一九八八(昭和六十三)年の記憶がよみがえる。昭和天皇の容体が重篤となり、忌野清志郎(いまわのきよしろう)=二〇〇九年、五十八歳で死去=率いるバンド「RCサクセション」の反原発アルバムが発売中止となった年。その二年前の旧ソ連チェルノブイリ原発事故を受け、国内でも反原発デモが巻き起こっていた。

 「ファインダー越しに、世界が変わる瞬間なんだという興奮を感じた」。当時、十九歳だった磯は、趣味の8ミリフィルムカメラを担ぎ、全国のデモを撮影して回っていた。

 陰湿ないじめで都内の高校を退学。自宅に引きこもる中、テレビニュースで「命が大事」と国や電力会社を糾弾する人々を目にした。「救われた気がした。社会からはみ出してもいいんだって」

 カメラを手にした磯が最初に撮ったのは八八年二月に高松市であったデモ。四国電力伊方原発(愛媛県)で、チェルノブイリ事故の遠因となった出力調整実験が強行され、三千人が抗議のため四電本店前に押し寄せていた。

 子どもを抱きながらマイクを握り「危ない実験をやめて」と叫ぶ母親。「原発やめてもええじゃないか」と楽しげに踊り歌う若者たち。磯は感動で鳥肌が立つたびに録画ボタンを押し、機動隊に引きずられてもカメラを放さなかった。

 その熱気は四月、東京・日比谷公園に当時最多の二万人を集めた反原発集会につながる。磯がまとめた映像は新聞で紹介され、全国から注文が殺到した。

 だが、カメラは次第に退屈さを写すようになっていった。

 「はい、ここで三時までシュプレヒコール」「バスに戻って弁当食べて帰りまーす」

 夏から参加した北海道・泊原発の運転反対デモでは既存の党派や労組系の団体が運動を組織化しようとし、一部の若者らは反発。運動は徐々に内向きになり、世論の共感は薄れていった。元号が「平成」に変わった翌八九年、何事もなかったかのように原発が動き始めると、参加者の多くが去った。

 「デモは一発大きな花火を打ち上げただけ」。運動を離れた磯は肉体労働で食いつなぎ、十年ほど前、沖縄にネット関係の仕事を得て移り住んだ。

 二年前の福島第一原発事故は、そんな磯に忘れかけていた原発の存在を突きつけた。「あのころの自分に『逃げたな』と言われているような気がした」

 磯はバイクで被災地の沿岸を走り、すっかり小型化したカメラで人けのない福島の町や荒れた家屋を撮影して回った。「この惨状が、またいつか風化してしまわぬように」。再び盛り上がったデモに通うよりも、今はそれが自分なりの脱原発運動だと感じている。

 金曜の官邸前で磯は思う。「二十五年前、あのファインダーの先にいた人たちは、今どうしているんだろう」

 当時の磯が撮った映像には、よく通る声で群衆に訴えかける一人の女性の姿が残っている。小原良子。四十歳の普通の主婦だった彼女は、あの八八年、デモの主役になり「反原発のジャンヌ・ダルク」と呼ばれていた。

 =つづく(文中敬称略)

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