3/23【東京新聞・特報】小出裕章 京大助教・定年インタビュー/反原発私自身のため/愛息夭逝 自分に素直に生きよう/福島 見続けなければ/ 事故は進行中/私でなければできない仕事があれば、引き受けます/仙人になります

やっと真打ち登場。一ヶ月前の第111回原子力安全ゼミ以来、最近腹が立つ報道が多い。
「これ以上小出さんに『闘え闘え』などと言うんじゃない!」と息巻いておられる方も多数おられるはずだ。 四十年以上、毎日お仕事をなされた上で土日には全国行脚の日々。特にこの四年間は尋常の生活ではなかったはず。少しはお休みを取って頂きたい。
半年後の今年の10月からは隠遁して著書執筆に励んで頂きたいというのが私の小さな願い。 まえがき、あとがき、帯書きではない書き下ろし-小出さんご自身の「滔々と流れる抵抗の歴史」-を書きおろして頂きたい。
特報部の牧デスクと小出さんが「酒席」でというと、多分2014年4月22日のクレヨンハウスだとピンと来る。

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小出裕章 京大助教・定年インタビュー

2015年3月23日【東京新聞・こちら特報部】

tky150323_koidesan_migiue 今月末で定年退職する京都大学原子炉実験所の小出裕章助教

 

京都大原子炉実験所の小出裕章助教(六五)が、今月末で定年退職する。強大な「原子力ムラ」と対決し、四十五年。その歩みは負け続きだったという。大学で教授のポストに就くことはなかったが、自らの思いには誠実に生きてきた。それは夭逝(ようせい)した愛息に教えられたことでもあったという。福島原発事故の終わりが見えない中、定年後も、自分にしかできない仕事を模索していきたいと語った。 (榊原崇仁)

反原発私自身のため

今月十七日、大阪府熊取町の京大原子炉実験所にある小出助教の研究室。書棚にあった大量の本や資料などは、数えるほどになっていた。「廊下や倉庫の書棚にあった分を含め、拾てました。どれも実験所の仕事にまつわるもの。定年と同時にその仕事はなくなります。これからの私にとっては意味のないもの」
節目を迎える感慨についても「何もないです。定年は単なる社会的制度。雇用関係が切れるだけ」。あっさりした言葉だが、簡単に語り尽くせない半生の裏返しのように聞こえた。

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(上) 小出助教の研究室。大量にあった本や資料は捨ててしまったという

一九四九年八月、東京都台東区の下町で生まれた。進学校の開成中学・同高校時代は一日も休まない「良い子」。盛んに宣伝された「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。
都市化が進む東京を嫌って東北大ヘ。大学のある宮城県では、女川原発の建設計画が浮上していた。目にしたのは原発立地を都会ではなく、過疎地に押しつける差別の構図。大学三年の七O年、小出助教は反原発の立場に転じた。
「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。当人はこの姿勢を”徹底した個人主義” と名付けるが、独善とは一線を画す。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
大学院修了を前に就職先として選んだのは原子力推進の研究機関、電力中央研究所だった。相手の土俵に乗り込み、原発をやめさせようとした。しかし、採用決定の寸前、女川原発の反対運動に参加していたことが伝わり、破談。その後京大原子炉実験所に応募し、四年に入所した。

 愛息夭逝 自分に素直に生きよう

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「熊取六人組」の1人で1994年に亡くなった瀬尾健さん。小出助教の研究室に写真が飾られていた=大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所で
そこで出会ったのが「熊取六人組」の仲間たちだ。大阪・熊取の実験所に属しながら反原発を訴えた六人を指す。七0年代に始まった伊方原発訴訟で住民側の証人になったことから、彼らの存在が脚光を浴びるようになったという。
六人のうち、小出助教の先輩は瀬尾健氏ら四人、後輩は一つ年下の今中哲二氏だ。「入所した当時から既に知っていた仲。皆、原子力に抵抗していたから」
六人組は週一回の会議のほか、自主ゼミや和歌山県日高町で毎年営む合宿などで常時議論を交わした。
「原子力は複合領域。私は自分の仕事の社会的な意義を捉えたかった。そう考えたとき、六人組は大変ありがたい存在だった」
六人組は家族ぐるみで付き合うほど仲が良かったという。小出助教も三人の息子に恵まれていた。
ただ、障害がある状態で生まれた次男は、半年でこの世を去った。「人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬか分からない。自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」
小出助教は全共闘世代でもある。向き合ったのは、大学当局や機動隊だけではない。学問や科学のあるべき姿も問い直した。
「人間には、未知の領域を知りたいという抑え難い欲求がある。研究者は国家や権力から独立し、真理の探究に専念すべきだ」
自身がたどり着いた真理は「原子力は危険で破滅的であり、犠牲を押しつける差別の問題でもある」だった。だが、こうした考えは圧倒的に少数派だった。
「突き詰めれば原子力は軍事の問題。日本という国家は原子力を進め、核保有につなげたい。そのため、原子力研究は国家の思惑に左右される。研究者はこの状況を自覚して行動すべきだが、出世したい、給料を上げたいと考え、国家に抱え込まれていった」

福島 見続けなければ

事故は進行中

熊取六人組は原子力の危うさを研究、公表し、原子力の利用に歯止めをかけようとしてきた。しかし二O一一年三月、福島原発事故が起きてしまった。
「緊急事態を理由に、汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば、生活者として放射能を忘れ、復興を考えるしかない。『放射能を口にするヤツは復興を妨げる。黙ってろ』というのが、福島の現状だ」
一方、故郷を追われた人たちも数多い。そして、事故から四年たった現在、国は早々に生活支援を打ち切ろうとしている。「片や加害者の方は、誰も責任を取ろうとしない。異常としか言いようがない」
反原発運動も一時の勢いを失ったように見える。「いまは福島が忘れ去られる過程にある」。どうしたらいいのか、という問いには「分かりません」とだけ答えた。後継者を育てる余力もなかった。「いまとなっては手遅れ。仕方がないと思っています」
小出助教は「負け続きだった」と語る。ただ、助教というポストについて「実験所で最下層の地位」と認めながらも「私には大変恵まれた立場。居心地がよかった」と話す。

実験所での仕事は所内で出る放射性排水などの処理だった。「自分の仕事をきちっとやる限り、上司は一切注文を付けず、自由にさせてくれた。私は最下層の職員なので、命令する人もおらず、自分がやるべきこと、やりたいことに集中できた。個性を重んじる京大の校風があったからこそで、反原発を訴え続けても最後の最後まで弾圧されることはなかった」

私でなければできない仕事があれば、引き受けます

tky150323_koidesan反原発系市民団体のシンポジウムに参加した小出助教(右から2人目)=1999年2月、仙台市で(篠原弘典さん提供)

 

 仙人になります

定年退職後、新たな定職には就かないという。がらんとした研究室で、小出助教は達観したように「仙人になります」と語った。
生まれ育った東京には戻らない。「信州で暮らします。暑いところが苦手ですし。妻と相談して、何年も前から決めていました」
しかし、俗世と距離を置くことは、そう簡単にできそうにない。「福島原発事故は、敷地の中でも外でも進行中です。完全に目をつぶることはできません」
実験所を離れれば、放射線関連の機器も使えなくなる。さらに自らの老いも実感している。しかし、淡々とこの先を見ている。
「定年なんて、本当に大したことじゃない。住むところは変えます。自分の人生設計を考えるよい機会だとも思っています。年を考えると、仕事はだんだん減らさざるを得ないですが、私でなければできない仕事があるのなら、引き受けようと思っています。ただ、半年先という範囲で。半年以上先は、生きているかどうか分かりませんので」

((デスクメモ))
「助教だから貧乏に違いないと同情する人が多くて。さらに酒好きも周知。薄給では酒も好きに飲めまいと、全国から銘酒が贈られてくる。助教の給与でも酒くらい買えます。でも、お断りするのも何なので、ちゃっかりごちそうに・・」。数年前、酒席でそう笑っておられた。ちゃめっ気は厳しい人に映える。(牧)

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