11/28貫いた反骨の精神/反権力の立場から社会問題を追い続けた報道写真家 福島菊次郎さん【東京新聞・夕刊】

写真がこわくてDAYS JAPANを止めてしまったが、菊次郎さんの追悼号だけは買わないといけないような気がする。

(2015年10月19日)【弁護士・金原徹雄のブログ】より
「福島菊次郎さんが遺したもの~「闘え」「菊」(『証言と遺言』より)」
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/45750649.html

広河隆一氏(フォトジャーナリスト、「DAYS JAPAN」発行人)
「祝島の近くで、私は福島さんから『折り入って頼みがある』と言われた。ただならぬ何かを感じ、私は居住まいを正した。彼の依頼は次のようなものだった。
いよいよ憲法が改憲される事態になったら、自分は焼身自殺という形で抗議するつもりだ。それを撮影して欲しい・・・・・。
私は心の底ではそのような事態にならないよう願いながら、『はい』というほかなかった。最後にはたとえ自殺ほう助と言われ、逮捕されようと、これは自殺ではなく闘いだ、と自分に言い聞かせ、カメラが没収され、すべてが闇に付されてしまう前に、いかにしてデータを速やかに発信するか考えた。(略)
権力が福島さんの最後の抵抗の意志を知っていたとは思えないが、『解釈改憲』などという姑息な手を使ってきた。その時点ですでに福島さんは、かなり憔悴してベッドから動けない状態だったと聞く。しかし想像にすぎないが、国会前に人々が押し寄せる状況を耳にして、それこそ望ましい闘いの姿であると思われていたと信じている。
闘いを次世代に委ねた形で、福島さんは息を引き取られた。福島さんの写真集『証言と遺言』の最後のページには、彼の書による朱の刻印が押されている。そこには『闘え』と書かれている」

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貫いた反骨の精神

 反権力の立場から社会問題を追い続けた報道写真家

 福島菊次郎さん

【東京新聞・夕刊】2015年11月28日

tky151128_kikujirousan自宅でインタビューに答える福島菊次郎さん。暴漢に襲われて重傷を負い、自宅が不審火で焼失しても反権力を貫いた写真家は、90歳を超えても社会問題を熱く語った=2012年11月、山口県柳井市で

反骨の報道写真家の原点は戦争末期の体験にあった。
広島市駐屯部隊の2等兵だった1945年7月31日、宮崎県・日南海岸に貨車で運ばれた。配属されたのは、米軍の本土上陸の際、爆雷を背負い戦車に飛び込む部隊。たこつぼ壕で、身を潜めるうち敗戦に。原爆の爆心地にあった原隊は全滅した。
山口県に復員すると、同級生の半数が戦死していた。「僕らは天皇制軍国主義の時代に育ち、言われるまま戦場で死んでいった。 この戦争体験が根っこにあって、常に撮る対象を深追いしていった」。連載企画でインタビューした時の言葉だ。 52年、広島市の漁師中村杉松さんと知り合う。妻を原爆症で失い、重い原爆症に苦しみながら子ども6人を育てていた。
見たこともない窮状に、カメラを向けられなかった。通い始めて約1年。中村さんの方から口を開いた。「仇-かたき-を討ってくれ。わしの写真を撮り、世界中に知らせてくれ」。 約10年後に完成した写真集は激賞されたが、病苦でのたうつ姿を撮り続けたので、心を病み、精神科病院に一時入院する。
42歳で妻と別れて上京。次々と雑誌に作品を発表した。成田闘争、学生運動、兵器産業・・・。反権力の立場から社会問題を追い続けたが、「物と金だけの世に絶望」して82年、瀬戸内海の無人島に移住。写真パネル「映像で見る日本の戦後」 (3300点)を制作した。今も全国で巡回の写真展が開かれている。
25万枚以上の撮影フィルムの中から「しあわせのうた」と書かれたネガ袋が見つかった。上京前、妻や幼い3人の子どもらを撮った写真。8月、病室に届けると、ベッドでうれしそうに眺めた。火葬の日、別れた妻や音信不通だった息子らも集まり、郷里、山口県下松市沖の海に散骨した。

9月24日、94歳で死去

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カテゴリー: ちたりた, 集団的自衛権, 再稼働, 憲法, 戦争法案, 放射能汚染, 中日東京新聞・特報 タグ: パーマリンク