12/4本田雅和さん(朝日新聞南相馬支局長)「平和・協同ジャーナリスト基金賞・奨励賞」 受賞おめでとうございます。

▽本田雅和・朝日新聞南相馬支局長さんの受賞作の文章が【鳥の広場】さんのところで読めるようだ。

なんで本田さんなのかというと、今年の夏2日間ほど熊取でご一緒させて頂いたから、知らない方ではない。
熊取駅からのバスから御一緒だった。 バス停で私とアイアジアの記者さんとのバカ話を優しい目付きで聞いておられたようだ。
その晩の懇親会で「福島はどうですか?」と、曖昧な聞き方をした私に「何にもないはずないでしょ!」と、たしなめられた時は鋭い眼光だった。
それで私も「美味しんぼの鼻血問題は生ぬるいと思います。福島で鼻血が出るなら東京でも出る人いますよ」と自説を披露したら、微笑まれたのを思い出した。
その時、この記者さんは福島でいろんなことを見聞きされているんだろうなぁ、記事を読みたいなと思っていたら、このたび受賞されたので、とても嬉しい。

wikiにはまだこの受賞が反映していないのが残念だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E9%9B%85%E5%92%8C

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希望の牧場シリーズ  【鳥の広場】さんより本田雅和さんの記事

http://torikyou2013.blog.fc2.com/blog-entry-1321.html

No.1293
1 被曝牛のエサ下さい

「福島県浪江町から来ました。『希望の牧場』と言います。原発から14キロの所で300頭の被曝(ひばく)した牛を飼っているのですが……」
4月の初旬、宮城県栗原市の栗駒山のふもとに広がる農村地帯。
「希望の牧場」のボランティアスタッフ針谷勉(はりがやつとむ)(40)は、畜産農家や酪農家を一軒一軒、車でまわりながら頭を下げ続けた。
「エサが足りません。積み上げてある牧草ロール、譲っていただけないでしょうか?」
4年余り前の東京電力福島第一原発事故のあと、針谷らがエサ集めの行脚を始めて3年目になる。

宮城県北部の栗原市は第一原発から150キロ近く離れている。原発事故直後に汚染された牧草はロールにされたまま、休耕田などに山積みに放置されていることが多い。
農地を除染し牧畜を再開する農家にとって、汚染牧草は邪魔物だ。県や市は焼却処分も検討しているが、反対も根強く、計画は進まない。
汚染牧草でもエサを与えねば「希望の牧場」の牛たちは餓死してしまうし、汚染度は国が一般廃棄物扱いを認めるレベルだ。

「ちょうどいい。150玉ほどあるよ。早く持っていって」
そう言ってもらえばありがたいが、うさん臭そうに「代表は何ていう人?」「汚染ロールだよ。あとで戻しに来たりしない?」など、根掘り葉掘り聞かれることも多い。
牧場主の吉沢正巳(よしざわまさみ)(61)の名前や、牛飼いとして殺せずに飼い続けていることを伝え、説得する。
農家3軒に1軒ぐらいは納得し、協力してくれる。

交渉が成立すると、同じボランティアスタッフの木野村匡謙(きのむらまさかね)(43)に連絡。数日後には、14トンの大型トラックで木野村が常磐自動車道、東北自動車道を北上し、片道3時間がかりで引き取りに行くのだ。
最初は運送会社に頼んでいたが、運賃が高くつく。昨年夏、牧場は福島県富岡町の元建設業者からこの中古トラックを借り受けた。運転する人が必要だと、木野村自身が大型自動車免許を取得した。
運転席の木野村が笑う。「福島県内から始めて、もらえるところがなくなると栃木、宮城県へと足をのばしてきました。今までに1千玉くらい運んだかな」

No.1294
2 売れぬ牛を飼う意味

初夏の日差しが注ぐ中、32ヘクタールに及ぶ牧草地のあちこちで、牛たちがゆったりと草を食(は)む。
福島県浪江町から南相馬市にまたがる、阿武隈高地の丘陵地帯。そこに「希望の牧場」はある。
しかし、「希望」の名を掲げる牧場にたどり着くには、東京電力福島第一原発の事故で全町避難が続く浪江町側からは入れない。昼間だけ通れるようになった南相馬市小高区側の無人地帯から近づくしかない。
原発からは北西へわずか14キロの地点。牧場は今なお、年間積算放射線量が20ミリシーベルトを超えるおそれのある「居住制限区域」なのだ。

そんなことにはおかまいなしに、とにかく牛たちはよく食う。
その数は300頭余り。ときに1玉数百キロもある牧草ロールが、1日あたり10玉は消費される。牧場に緑の草が生えていない冬場は、さらに補給が必要になる。
エサの多くは、放射性物質を含むため廃棄予定の汚染牧草ロール。ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)らが、遠く宮城県栗原市の牧場から毎週のように運び込む。牧場主の吉沢正巳(61)が福島県相馬市の食品工場からもらってくるモヤシかすや野菜くずなども欠かせない。

「経済価値のない、売れない牛を飼い続けるのはバカげた話かもしれない。意味がないかもしれない。意味がないことの意味を、考えながら続けることの意味が、わかるかっ」
まだ春浅い3月半ば。牧場を見学に訪ねて来た東京の大学生ら十数人を前に、吉沢は挑発するように問いかけた。

4年前の原発事故から2カ月後の2011年5月12日、原発から20キロ圏の警戒区域内にいる家畜について、国は「殺処分」への同意を各畜産農家に迫った。
肉牛も乳牛も豚も、放射能に汚染されて移動もできず、市場価値もなくなり、飼育のために人も立ち入ることができなくなった以上、安楽死させるしかない――というのが国の論理だ。
だが、自らを「べこ屋」と呼ぶ吉沢はそれに逆らい、共感した全国各地のボランティアたちが支援を続けてきた。
べこ屋が家族同然にしている牛だ。「利用価値がなくなったから」と国に言われ、「はい、そうですか」と殺せるわけがない。その国は東電とともに原発を推進してきた加害者だ。吉沢同様、多くの畜産農家がそう考えていた。

No.1295
3 国と東電への抗議だ

東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域内の家畜は「殺処分」せよ――。2011年5月、国から出された指示に、当然のことながら多くの畜産農家は反発した。
福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)ら十数軒を除く300近い畜産農家がやがて、説得に応じ、泣く泣く牛を手放した。
飼育のために立ち入ることもできない圏内でまだ生きていた約1700頭が、「安楽死」させられた。
何人かは避難するにあたり、「同意拒否」を宣言していた吉沢らに牛を託していった。

「俺はここで被曝(ひばく)した牛と生きていく。それが国と東電に対する猛烈な抗議なんだ。俺自身がエサをやりながら被曝してもね。こいつらは、原発被害の生き証人なんだから」
今も絶えることのない牧場見学者に対して吉沢は、ときに怒りにまかせて演説をする。

「国への抵抗や原発への怒りは分かります。でも、この闘いに展望はあるんでしょうか?」
今年3月、神奈川県から来た大学生の一人は疑問を投げかけた。
牧場にいる300頭余りのほとんどが黒毛和牛と聞き、こう指摘する学生もいた。
「もともと食肉用に殺すはずだった牛を飼い続けることに、矛盾は感じませんか?」
そんな疑問や矛盾を、吉沢は決して否定はしない。
「その通り。矛盾そのものさ」「矛盾そのものをそのまま生きている」。そう返すのだが、自分自身でうまく説明できない。

そんな牧場主を、ボランティアスタッフの針谷勉(40)が支える。原発事故直後に通信社の記者として現地に入り、取材の中で吉沢と出会った。考えに共鳴し、通信社を辞めて独立。フリージャーナリストになり、傍ら牧場を手伝いだす。
この4年の間に、針谷にとっての吉沢は「牛飼いの師匠」から「生き様の師匠」へと変わっていた。
「吉沢父さんの生き方は、3・11後の彼の体験やこれまでの人生を理解しないと、言葉だけでは分からないんだよね」

4年前の3月11日、東日本大震災の大きな揺れが襲ったとき、吉沢は南相馬市内のホームセンターで買い物をしていた。
尋常でない揺れが落ち着くや、牛のことが心配になり、乗ってきたトラックですぐに牧場へ引き返そうとした。

No.1296
4 内陸へ、まるで戦場

2011年3月11日。

東日本大震災が起きたとき、福島県南相馬市で牧場備品の買い物をしていた吉沢正巳(61)は、揺れがおさまるや、すぐに自家用トラックのハンドルを握った。
牛のことが心配だ。早く自分の牧場に戻りたい。

吉沢が代表を務める「希望の牧場」は震災前、もともと「吉沢牧場」を名乗っていた。
正式には農業生産法人・有限会社エム牧場(本社・二本松市)の浪江農場。場長の吉沢がエム牧場所有の肉牛約330頭を預かり、肥育・繁殖する契約だった。
姉の小峰静江(こみねしずえ)(63)とその長男の敦(あつし)(36)も敷地内の住居で一緒に暮らし、牛の世話を手伝っていた。

携帯電話は通じず、牧場とは連絡がとれない。先を急いだ。
浪江町の吉沢牧場までは15キロほど。ふだんなら20分ほどで帰れる。しかし、道路の寸断と避難車両の渋滞で1時間近くかかった。
戻ると、停電で地下水をくみ上げられず、ディーゼル発電機を起動して牛舎に給水した。
直後、カーナビのテレビが太平洋沿岸部の大津波を伝えた。

翌12日の早朝。
牧場の南側を東西に走る国道114号では、東の海岸部から西の内陸部へと避難する車の混雑が始まっていた。

心配になった吉沢は、避難の車列の進路とは反対方向に車を走らせ、海岸部の浪江町請戸(うけど)地区の様子を見に行った。
津波で182人が亡くなり、うち32人の行方が今も分からない町内で、最も多くの犠牲者を数えることになる地区だ。海岸の街並みはなくなり、がれきしか見えなかった。今思えば、あのがれきの下には、波に引きずりまわされて傷つき、助けを待っていた人もいたはずだ。それをふり切るかのように西へ、内陸部へと多くの人々が、群れのように急ぐ光景が重なった。

「まるで戦場だ」
自分に戦争体験はないが、70年前、旧満州の荒野で侵攻してきたソ連軍から逃げ回ったと話していた亡き父の姿が、脳裏をかすめた。
だが、吉沢にとってはもっと恐ろしい事態が、南東14キロ先の東京電力福島第一原発で進行していた。
原発がおかしい。そんなニュースが前日から、カーナビの画面に流れ始めていた。

No.1297
5 なぜ犠牲なんかに

2011年3月12日の早朝。
福島県浪江町の吉沢正巳(61)が沿岸部の請戸地区で津波による惨状を目の当たりにする前、県警災害警備本部の通信班員約10人がワゴン車3台を連ねて吉沢牧場にやって来た。
「ヘリコプターからの原発サイトの空撮映像を受信し、本部に中継する通信基地として、牧場の一角を使わせてほしい」

14キロ先の東京電力福島第一原発の様子がおかしい。それは知っていたので要請を快く受け入れた。
ところが職員らは夕方になって、急きょ、パラボラアンテナを片付け始めた。吉沢によると、こう言い残して立ち去ったのだった。
「撤収命令が出たので引き揚げます。あなたたちもここにはいない方がいい。政府は情報を隠している」

それより前の午後3時36分。
原発1号機建屋で水素爆発が起きた。吉沢には知るよしもない。

約3時間後の午後6時25分。
浪江町北西部の山間地・津島地区を除く原発20キロ圏内に、避難指示が出された。
町長の馬場有(ばばたもつ)(66)は、国や県、東電からは一切何の連絡も町になかったことを、今も憤る。

2日後の14日午前11時ごろ。
避難指示が出ても牛の世話のために牧場に残った吉沢は、連発花火のような大きな爆音を立て続けに2回聞いた。不安は膨らんだが、すぐには何の情報もない。そのまま牛の給餌(きゅうじ)を続けた。
3号機建屋の爆発だったことは、二本松市にいた提携先のエム牧場社長だった村田淳(むらたじゅん)(60)からの電話で知った。

15日朝、4号機建屋も爆発。
村田に勧められるまま、牧場内の住居から姉の小峰静江(63)や甥(おい)の敦(36)とともに、西へ35キロの二本松市にある村田宅へ一時避難した。だが、牛にエサをやるため、16日にはひとり牧場に戻った。

17日朝、自衛隊ヘリが3号機めがけて袋詰めの海水を投下した。
自宅2階から吉沢は、双眼鏡で観察していた。排気筒の高さを超えるほどの白い噴煙があがった。自衛隊員が危ないじゃないか。言いようのない怒りがわいた。
牛の出荷についても「取引先から断られた」と、村田からすでに電話が入っている。
俺たちや自衛隊員がなぜ、こんな無策の原発を進めてきたやつらの犠牲にならなきゃいかんのだ。
納得できなくなった。

◇No.1298
6 牛はたぶん全滅する

福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)は、震災前から筋金入りの反原発派だった。東北電力が地元に計画していた浪江・小高原発の建設では「カネによる地域の分断」も目の当たりにしてきた。
牧場の14キロ南東にある東京電力福島第一原発では2011年3月12日、建屋の爆発が始まり、15日には自らが一時避難を強いられた。
「東電本店に直接抗議に乗り込む」。そう決意するまでに時間はかからなかった。

吉沢の牧場に牛約330頭を預ける提携先・エム牧場社長の村田淳(60)に電話で相談すると、村田もすぐに賛同してくれた。
「牛の賠償を請求してくれ。牧場のスポークスマンとして」
牧場内のトラックや作業車にわずかに残るガソリンをかき集め、拡声機を取り付けた軽ワゴン車に給油。17日夜、東京に向けて出発した。

翌18日午前8時、東京・内幸町の東電本店。
単身で入り口に現れた吉沢は厳戒警備中の警察官らに止められた。
「福島県浪江町のベコ屋だ。放射能で俺は戻れなくなったし、牛は水もエサもなくて死んじまう」
泣きながらの説明に、ついには私服警官が立ち会うことで応接室に通された。

応対した東電社員に吉沢が訴えたのは二つのことだった。
「牛はたぶん全滅する。必ず全て弁償しろ」
「逃げるなよ。自衛隊が決死の思いで闘ってる。お前たちが自分でつくった原発を自分で制御できなくてどうする、ふざけるな。俺だったら原子炉に水をかけに、命をかけてホース持って飛び込んでいく」
吉沢が泣きながらまくし立てると、応対の社員も目を赤くした。

その後も車で寝泊まりしながら1週間ほど都内をまわり、街頭演説や官公庁への抗議を続けた。
浪江町の牧場に帰ると、留守を預かる村田は牛舎から牛たちを解き放ち、自由にさせていた。
「一部の牛は牧場外に逃げたかもしれないし、近所迷惑かもしれない。でも、牛舎内で餓死させるより、はるかにましだ」。それが村田の考えだった。
実際、浪江町や南相馬市の牧場、畜産農家ではその後、多くの家畜が餓死していった。空腹で牛舎の柱にかじりついたまま目をむいた牛、骨と皮だけになった馬などの死骸を吉沢も嫌というほど見た。

No.1299
7 人の手で生かす道を

2011年3月下旬。
東京電力本店への抗議から福島県に戻った浪江町の牧場主・吉沢正巳(61)は、二本松市にある提携牧場の社長・村田淳(60)の家に再び身を寄せた。
3日に1度、35キロ先の自分の牧場まで通い、牛にエサをやり続けた。牧草のほかに廃棄されるモヤシかすや野菜くず……。今はそれらを相馬市内の食品工場から直接もらい受けてくるが、当時は提携牧場から運び込み、冬場の牧草不足を補った。
牧場は福島第一原発から北西14キロの地点。被曝(ひばく)は覚悟の上だった。

原発事故の発生から1カ月余りになる4月22日、国は原発20キロ圏内を立ち入り禁止の警戒区域とし、バリケードや検問所を設けた。区域内に入ったり寝泊まりしたりする場合、たとえ自分の家でも国や市町村長の許可が必要になった。
許可証は簡単には出ない。それでも、吉沢は牧場通いをやめるわけにはいかない。最初のうちは、バリケードをどけたり、牧場に通じる抜け道や獣道のような山道を利用したり……。検問の警察官に止められると、こう説得した。
「牛が死んでしまう。エサをやらないと。自己責任で入る」

しかし、次第に警備は厳しく、バリケードも堅固になっていった。
5月12日には、区域内の家畜を殺処分にするよう国の指示が出た。

そのころ、民主党の衆院議員だった高邑勉(たかむらつとむ)(41)は自主的に被災地に入り、家畜救出を求める農家の訴えに耳を傾けていた。その中で吉沢のことを知り、仲介に動き出す。
「家畜の衛生管理」や「被曝牛の学術調査・研究」への協力名目で、許可証が出るよう尽力した。
「牛を殺すな」。同じように共鳴したボランティアやジャーナリストらが全国から支援に駆け付けるようになり、彼らと協力しつつ高邑と吉沢は7月、「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトを立ち上げた。警戒区域内の家畜は「餓死か殺処分」の二者択一ではなく、「人の手で生かす」という第三の道を模索しよう。それが狙いだった。

南相馬市や浪江町の役所窓口で、吉沢は「公益目的の一時立ち入り許可証」を得られるようになった。
だが、役所の窓口では、吉沢が牧場内に「殺処分反対」「反原発」などの看板・幟(のぼり)などを設置し、国の政策を批判していることを問題視。許可用件の「目的外行為だ」として撤去を求めたりした。

No.1300
8 同意書「憲法違反だ」

2011年3月の福島第一原発事故に伴い、原発20キロ圏内の「希望の牧場」は立ち入り禁止の警戒区域内に入った。それでも牧場代表の吉沢正巳(61)は牛の世話を続けた。そのために2週間ごと、地元・福島県浪江町の役場へ出向き、立ち入り許可証の更新を繰り返した。11月以降は、ある同意書の提出も求められた。吉沢は疑問や不満を抱きながらも、仕方なく応じ続けた。
同意事項は、作業内容や結果をインターネットなどで公にする場合は必ず町の許可を得る▽マスコミなどの取材は一切同行させない……。書面の内容は、メディアに門戸を閉ざさない吉沢に同行取材するジャーナリストたちの間で、波紋を広げていった。

明けて12年の5月初旬、東京。
弁護士の日隅一雄(ひずみかずお)は、コメントを求める記者の取材を受け、事情を知ると怒りの言葉を口にした。「明白な憲法違反ですよ」
産経新聞の記者を辞め、法曹の道に転じて14年余。原発事故が起きたあとは、東京電力や国の記者会見に欠かさず通いつめ、情報の隠蔽(いんぺい)を厳しくただし続けていた。取材応対もそこそこに、すぐ吉沢の携帯に電話を入れた。「国と町へ抗議の申し入れをし、記者会見で事態を公表したいのですが」

その後の行動も早かった。
東京弁護士会の報道と人権部会の元部会長・梓澤和幸(あずさわかずゆき)(72)を誘い、「弁護団」を結成。5月17日には国の原子力災害対策本部と現地対策本部(オフサイトセンター=OFC)や町に「表現の自由の侵害だ」と申し入れ、県庁で記者会見も開いた。主張はこのようなものだった。
牧場作業の公表をめぐる事前許可の「強制」は、憲法で禁じる検閲にあたる。ジャーナリストの同行の「禁止」は取材を受ける権利、ひいては取材する権利を侵害し、報道の自由、市民の知る権利を侵す。

町役場は許可証を出すにあたり、なぜ一連の条件をつけたのか。会見にいたる過程の中で、記者は町長の馬場有(66)から聞いていた。 「条件を町がつけた覚えもないし、つける必要もない。国は形式的に許可権限は町にあるというが、実態はすべてOFCが指示している」
これに対しOFCの担当者は、かみ合わない釈明をした。 「警戒区域で牛を飼う行為が野生化する牛を増やし、周辺に迷惑をかける。町の担当者から相談を受け、同意条件を協議した」

No.1301
9 「余命半年」を超えて

2012年5月17日、福島県庁。

牛を飼い続けるのに必要な許可を得るため、不本意な同意書を出してきた浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は、東京の弁護士・日隅一雄ら「弁護団」と開いた記者会見の場にいた。
福島第一原発事故後の11年4月以降、警戒区域内に入った牧場は自由に立ち入れなくなっていた。
立ち入りが禁止され、例外的に許可を得て入った場合でも、区域内でのことを公表したり、マスコミに書かせたりしてはならない――同意書で国と町から課された「条件」は、要約すればそういうことだった。
会見では表現・報道の自由や知る権利などを侵し、憲法違反にあたるなどと強く抗議。結果、「条件」はほどなく撤回に向かう。

会見に臨んだとき、中心にいた日隅の体はぼろぼろの状態だった。意識がもうろうとして思考を妨げるからと鎮痛剤も使わず、全身に広がった痛みに耐え、マイクを握った。
「末期の胆のうがんで余命半年」。そう医師に告知されてから、すでにほぼ1年。
日隅はこの間、入院治療を拒んで20日間で退院後、自宅闘病を続けてきた。抗がん剤を打ち、漢方を含むあらゆる療法を試みつつ、東京電力や原子力安全・保安院の記者会見に延べ100回以上も通い続けた。
政府の「低線量被曝(ひばく)についての間違った発表」、東電の「汚染水放出についての情報隠し」……。県庁での会見の前月には、福島大で開かれた「原発と人権」シンポジウムで、原発事故をめぐる問題点を指摘、元新聞記者の立場からマスメディアには特に厳しい批判の矛先を向けた。
「知り得たことを報道せず、放射能汚染情報を住民避難に生かせなかった」

県庁会見の6日前。東京・原宿のギャラリーで牧場の写真展を取材していた記者の携帯が鳴った。
「あす体調がよければ写真展に行きたい。案内してもらえませんか」
日隅からだった。写真展のことは取材を受けて聞いていた。
「本来なら牧場に行き、どんな牛たちをどんな風に育てておられるか、現場の土と風にふれながらお話を聞くべきなのです。ですが……」
県庁や福島大のある福島市までは新幹線で何とか往復できても、さらに浪江町までとなると山越えが難しい。すでにギリギリの体調だった。
「せめて写真を通して感じとりたいんです」

* 「希望の牧場」が当日の模様を伝えた記事がこちら。
2012年05月18日「化かされた」

 

 

No.1302
10 最後まで願い、逝く

約束の午前10時半きっかり、東京・JR原宿駅前。
待ち合わせ場所に現れた弁護士・日隅一雄は、支援する福島県浪江町の「希望の牧場」の写真展が開かれているギャラリーまで、数百メートルの道のりを1時間近くかけて歩いた。
何度も何度も路上の縁石に座り込み、休んでは歩き、歩いてはまた休み、会場へと向かった。

2012年5月12日のこと。
数日後には、福島県庁で記者会見を開く予定が控えていた。
福島第一原発20キロ圏内の牧場への立ち入りをめぐり、牧場代表の吉沢正巳(61)に課せられた「表現の自由への制限」に対し、抗議するためだった。

しかし、1年前から末期の胆のうがんで闘病を続ける身には、さらに遠い沿岸部の牧場まで、となると往復するのは厳しい。支援に取り組み始めながらも、念願の現地入りを果たす見通しは立たないままだった。 ならば、少しでも現場の様子を知るために、写真展に案内してほしい。そう切望し、取材で知り合った記者に付き添いを打診してきた。

すでに体は口からの食事を受け付けない状態で、この朝も点滴を打ち、待ち合わせ場所にやって来た。
「短い距離ですが、やっぱりタクシーに乗りませんか」
道すがら、何度尋ねても、「いや、大丈夫」と首を振った。

ギャラリーに着くと、電話だけのやり取りだった吉沢と初めて顔を合わせ、静かに笑ってあいさつした。場内を回り、吉沢の説明を聞きながら牛の写真一枚一枚に見入った。
最小限の言葉を交わしつつ、記者会見や関係官庁への申し入れの打ち合わせも済ませた。
面会も含めて1時間ほどでギャラリーを出ると、日隅はさすがにどっと疲れが出たように見えた。
「タクシーをお願いします」
そう言うのが精いっぱいだった。都内の自宅マンションまで送られると、居間に入るなり、そのまま倒れ込むようにソファに休んだ。

1カ月後の6月12日早朝。日隅は激痛に耐えかね、救急車で都内の病院に入った。
先輩弁護士の梓澤和幸(72)や海渡雄一(かいどゆういち)(59)、国と東京電力の責任を記者会見で一緒に追及したジャーナリストの木野龍逸(きのりゅういち)(49)らが続々集まってきた。そんな心許せる「同志」たちに囲まれながら、日隅はその夜、永眠した。49歳だった。

浪江町の牧場で訃報(ふほう)を聞いた吉沢は自責の念に苦しんだ。

http://torikyou2013.blog.fc2.com/blog-entry-1323.html

 No.1303
11 「生き証人」役立てて

福島第一原発の事故で20キロ圏内の立ち入り禁止区域に入った福島県浪江町の「希望の牧場」。そこで牛を飼い続ける人に寄り添い、人権の根本から規制の是非を問うことで、入域や取材への制約を取り除く。
49歳で他界した東京の弁護士・日隅一雄にとって、それが最後の仕事になった。

日隅を「しのぶ会」は、死去後1カ月余たった2012年7月22日、東京・丸の内の東京会館で開かれた。参院議員の福島瑞穂(59)ら約500人の会葬者の中には、浪江町からトラックで駆け付けた長靴姿の牧場代表・吉沢正巳(61)と、スタッフの針谷勉(40)の姿もあった。
「牧場を支援する活動が、死期を早めたのではないか」
吉沢も針谷も訃報(ふほう)を受けて以来、悔やんできた。

しかし、日隅は死の直前、こう話していた。
「いろんな活動をすることが生きがいになって、僕の免疫力は高まった。(末期がんで)宣告された余命半年を倍以上に延ばし、ここまで来られたんです」
原発事故をめぐる問題の追及や牧場の支援と同じく、弁護士生命をかけて闘った「NHK慰安婦番組改変訴訟」の原告・西野瑠美子(にしのるみこ)(62)に、かすれた声で闘病中の思いを打ち明けていた。

その日隅の言葉を伝え聞いた針谷は、「吉沢父さんと似ているな」とすぐに思った。
原発から北西14キロにある牧場内で暮らす吉沢は、この高線量の区域で牛の世話を続けてきた。よく言う冗談めかした口癖がある。
「俺の被曝(ひばく)量は半端じゃない。けど、俺は逆に放射能で活性化されて元気になっちゃったんだ」
しかし、定期的に内部被曝検査を受診するなど、健康を気にしていることを、針谷は知っていた。

その吉沢がもっと気にかけていたのが、牛たちの身体の変化だった。
吉沢たちが経済価値のなくなった牛を300頭以上も飼い続ける一番の「大義」は、「原発被害の生き証人」ということだけにとどまらない。「放射能による家畜の生体への影響を長期的に記録し、今後のために役立ててほしい」。そう願う意義も大きかった。
全国各地の大学からは「被曝牛を研究対象にしたい」と様々な申し出があった。「国に見捨てられた牛たちが役に立てる」と吉沢たちも積極的に協力してきた。

No.1304
12 牛に白斑「原因不明」

放射性物質の散らばる牧場での外部被曝(ひばく)や、汚染されたエサによる内部被曝で、原発事故後の牛たちの健康状態はどうなっているのか。「被曝牛を研究対象にしたい」。福島第一原発から20キロ圏内にある福島県浪江町の「希望の牧場」には、全国各地の大学や研究機関から申し出が相次いだ。
しかし、年月が経つにつれ、「研究費助成の削減のため」などの理由で多くの機関が「希望の牧場」での調査から手をひいていった。

原発事故から1年半近く経とうとする2012年夏ごろ。
牧場の黒毛和牛の一部に白い斑点が出ている――。牧場主の吉沢正巳(61)は異変に気づいた。部分的に体毛が白髪のようになり、毛をそってみると体表の皮膚まで白い。
1年後の13年夏になると、白斑の出た牛は30頭以上になり、うち10頭は全身に広がっていた。「放射能の影響か」と強く疑った吉沢は、国に徹底解明を求めた。

13年10月10日、農林水産省畜産部が調査に乗り出し、専門官らが牧場を訪れた。比較のため白斑牛と非白斑牛を5頭ずつ診察し、採取した体毛や血液を分析のため持ち帰った。
14年1月6日付で牧場側に開示された「調査報告書」の結論は、白斑牛も非白斑牛も「重度の銅欠乏症」だった。
銅は「生体内で重要な役割をもつ微量元素」で、「欠乏すると毛の色が薄くなる症状も見られることがある」と指摘。そのうえで、白斑牛と非白斑牛の双方に銅欠乏症がみられることから、それが白斑の原因かどうかは「特定できない」「不明」としていた。
その後、調査に大きな進展はない。農水省の担当者はこう言った。「継続して県の家畜保健衛生所が現地調査をしている。放射線との関係については大学の研究機関がおやりになっているので……」

報告書の結論に、牧場のボランティアスタッフの針谷勉(40)は「これでは一般的な健康診断と同じ」と反発した。
「我々が求める放射線との因果関係の有無を本気で調べる気があるのなら、被曝線量の調査、皮膚の切片を採取しての生体組織の検査、筋肉のセシウム含有量の調査などが必要なはず」
牧場の獣医師・伊東節郎(いとうせつろう)(66)も「『わからない』が結論だなんて。無責任もいいところ。わかるまで調べるべきだ」と怒った。

No.1305
13 牛を見せ物にするな

福島県浪江町の「希望の牧場」で白い斑点のある牛が増え始めてから間もないころ、牧場の様子を紹介する写真展が同じ県内の二本松市で開かれた。

2012年10月。
事故が起きた福島第一原発周辺の家畜の状況が気になっていた獣医師・伊東節郎(66)は催しの会場を訪れ、牧場代表の吉沢正巳(61)らの活動を初めて知った。 「放射能に汚染された牛を300頭以上も飼い続けるなんて、この男はいったい何を考えているんだ」最初はいぶかしく思い、理解できなかった。

その後何度か吉沢やスタッフに会う機会があり、話を聞くうちに、「人間の都合で牛を殺していいのか」という怒りは共有できた。牧場ではそのころ、自然交配で増えた牛も含め、エサや栄養の不足が原因と思われる病気で死ぬ牛が相次いでいた。「白斑症」も減る気配がない。
吉沢らは、栄養管理や去勢を担当する牧場専属の獣医師を必要としていた。
「原発被害の証人として生かすという考えには賛成だ。けれど、ここで牛を飼うと決めた以上、自分の主義主張の見せ物にするのではなく、きちんと健康管理をするべきだ」
考えた末、伊東は専属の仕事を引き受けようと決断する。

もともと伊東はブラジルの牧場で長く働いていた。転機は11年3月の原発事故だった。
生まれ故郷の東京・渋谷の幼なじみから連絡があり、「日本は今、大変なことになっているぞ。帰って来いよ」と促された。
その年の6月、すでに成人している娘3人の反対も押し切ってブラジルを後にし、実に33年ぶりに単身で帰国した。
すぐに東北へ飛ぶと、宮城県石巻市の石巻専修大キャンパスに持参のテントを張った。全国から駆け付けた若者や自衛隊員と一緒に、津波で被災した民家の泥かきなどにボランティアで従事した。
「泥かきだけじゃなく、本来の獣医師の資格を生かして復興の役に立ちたい」
12年2月からは、福島県大玉村の県鳥獣保護センターに勤務した。
写真展から7カ月後の13年5月、「希望の牧場」専属になると、吉沢の「良き批判者」となるべく、牛の飼い方では遠慮なく持論を展開し続けた。

No.1306
14 長期的な観察が必要

「牛は見せ物じゃないぞ」
2013年5月から福島県浪江町の「希望の牧場」専属獣医師になったブラジル帰りの伊東節郎(66)は、牧場代表の吉沢正巳(61)に持論を展開し続けた。「しっかり健康管理を。俺たちには責任がある」
とはいえ、牧場内で見つかる白斑のある牛には首をかしげるばかり。「ブラジルでもたまに見かけたが、どれも先天的だった。ここでは後天的。同じ原因かどうか」

白斑は別の牧場でも見つかった。
福島第一原発から西へ6キロ。大熊町の「池田牧場」の牧場主・池田光秀(いけだみつひで)(54)が白い斑点に気づいたのは、同じ13年の春ごろだった。
ただ事情は異なる。「11年3月の震災前にもたまに見かけた。だから1、2頭なら気にならなかった」
しかし、今では51頭のうち25%にあたる13頭の牛に白い小さな斑点が目立ち、ほかの1頭は横腹に数十センチ大に及ぶ丸い白斑が出ている。

今年5月17日、獣医師で岩手大農学部准教授の岡田啓司(おかだけいじ)(58)を中心とした「原発事故被災動物と環境研究会」のチームが池田牧場を訪れた。黒毛和牛4頭に麻酔をかけ、白斑部位の皮膚の小片を採取。急速冷凍した生体組織を岩手大獣医病理学研究室に運び、分析が続く。

岡田らは震災の翌12年9月から、原発20キロ圏の旧警戒区域内で被曝(ひばく)牛の調査を続けている。
研究会の顧問で獣医放射線学が専門の北里大名誉教授・伊藤伸彦(いとうのぶひこ)(67)は言う。「現時点で原因は分からない。複合要因として放射線の影響も捨てきれないし、微量元素の欠乏や感染が原因という説もある」
同じく北里大教授の夏堀雅宏(なつほりまさひろ)(49)は、空間放射線量が池田牧場より高くても、広い牧野で自由に水の飲める川がある牧場では白斑の症状が出ていないことを指摘。「放射線の影響とは考えにくい」と話す。
「飼い主が避難などで給餌(きゅうじ)・給水を十分にできなかった牧場に多発している。飢餓状態などの過酷ストレスが原因となり、後遺症としてこういう形で現れたのではないか」

これまで牧場で死んだ牛の解剖結果や筋肉・臓器に蓄積した放射性セシウムの調査からは、顕著な放射線由来の病変は見つかっていない。だが、牛のような大型家畜の長期低線量被曝の影響データは、世界的にもほとんどない。そのため、こんな見解では一致している。
「ここの牛は非常に貴重。長期的な観察と研究が必要だ」

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No.1307
15 最後まで同意しない

東京電力福島第一原発から西へわずか6キロ地点の福島県大熊町内。白斑牛が見つかった「池田牧場」の牧場主・池田光秀(54)は、ここで長年、和牛繁殖業を営んでいた。
国に逆らい、原発事故に伴う牛の殺処分指示への同意を拒んできた。当初は浪江町の「希望の牧場」からエサの支援も受け、代表の吉沢正巳(61)とはいわば「同志」的関係だったが、「俺はあんなに過激じゃないよ」と、冗談めかして笑う。広さ5ヘクタールの池田牧場では原発事故の前、和牛31頭を飼っていた。

2011年3月12日早朝、原発が危ないということで、10キロ圏内に避難指示が出た。
「最後のエサだよ、ごめんね。ごめんね」
池田は泣きながら、一頭一頭に給餌(きゅうじ)していった。

それからの池田一家は県内各地の避難先を転々とした。田村市、郡山市、裏磐梯(北塩原村)、喜多方市、いわき市……。9カ月後には広野町の借り上げ住宅に入った。その間、原発20キロ圏内の牧畜農家で牛が大量に餓死しているとのニュースを耳にし、うちも同じだろうと、あきらめかけていた。
だが、6月に一時帰宅すると、牛たちは柵を破って牧場の周辺へと逃げ、全頭が「放れ牛」となっていた。家族同然に育ててきた牛たちだ。池田は「生きていてくれたんだ」と胸をなで下ろした。

妻の美喜子(みきこ)(57)と一時帰宅するたびに牛舎にエサを置いていくと、牛たちは時々戻り、エサを食べ、牛舎をねぐらにした形跡があった。
野生化した放れ牛が市街地を走り回り、空き家を荒らすというので、やがて大熊町は囲い込みを始めた。原発事故から1年余り過ぎた12年4月、池田も耳標で確認しながら探し出しては連れ帰り、電気柵を作って囲い込んだ。近くで畜産を営む美喜子の実家の20頭も連れてきた。

殺処分に同意してしまい、「もう牛を見るのさえ嫌だ」と心が折れる仲間の姿をたくさん見てきた。
逆に池田は宣言している。
「最後まで同意しない。国は法的根拠がないから農家に責任を転嫁している。町内で応じないのは池田さんだけと迫った。ずるいやり方だ」
「むだに殺すのではなく、少しでも人類のために役立ててほしい」
牛は雑草を食べる。牧区を区切って放牧すれば農地の荒廃を防ぎ、除染にも役立ち、早期の営農再開も見込めると信じている。

No.1308
16 霞が関に牛を放て

2014年6月19日。
福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は、「原発一揆声明」を発表した。
牧場の被曝(ひばく)牛の一部に現れた白い細かな斑点(白斑)の原因について、農林水産省は「わからない」としつつ、放射能との因果関係を探る詳細な調査はせずに幕引きしようとしている――吉沢たちには、そうとしか思えなかった。
声明は「原因がわかるまで徹底調査せよ」と求めていた。

環境相の石原伸晃(いしはらのぶてる)(58)が汚染土などの中間貯蔵施設の建設をめぐって「最後は金目(かねめ)でしょ」と発言したり、人気漫画「美味(おい)しんぼ」で新聞記者が東京電力福島第一原発の取材後に鼻血を出したとの表現が非難を浴びたり……。原発事故をめぐる様々な問題が日々のメディアをにぎわせていたころだった。
吉沢は声明で、石原発言を「まともな賠償をしたくないという国の本性が出た」と批判。「美味しんぼ」騒ぎについても「原発再稼働に障害となる表現や考え方の自由への縛りが始まっている」と指摘した。
抗議として20日、東京・霞が関の官庁街に白斑牛を放ち、政府官僚や報道陣に見てもらおう――。それが吉沢のいう「原発一揆」だった。

計画を知った吉沢の姉・小峰静江(63)は大反対し、「身体を張ってでも阻止する」と怒った。
「逮捕されるに決まってるでしょう。あんたが逮捕されたら、いったい誰が牛の面倒見るんだい」
ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)には、「牛を運ぶトラックをパンクさせる」と伝えた。牧場車両の管理をしていた木野村は「パンクさせられると修理代が高くついて牧場経費に響くから」と、空気の抜き方をメールで教えた。

しかし、静江は結局、空気を抜くこともあきらめた。
「弟はいったん決めたら引かないし、止めても無駄。あの子は小さいときから何をしでかすか分からん子だった」と嘆く。
吉沢が4歳の頃、父親が牧場の水くみ場で包丁を研いでピカピカにしていた。じっと見ていた吉沢は、父親がその場を離れたすきに、自分の左手親指にグイッと当てた。「ギャア」という泣き声で、静江は血みどろになっている弟に気づき、あわてて父親を呼んだ。「切れるかどうか確かめたかった」と言ったらしいが、吉沢はあまりよく覚えていない。

No.1309
17 猛反対を受けたって

深い傷痕が左手に残る。この傷で親指の付け根の関節部は引きつり、今も動かないままだ。福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は幼少時、切れ味試しにと、自らの左手親指に包丁を当て、この傷を負った。
姉の小峰静江(63)は、子どもの頃から変わらない弟の無鉄砲さを気にかけつつ、牧場運営では獣医師の伊東節郎(66)と同様、吉沢に厳しい批判の目を向けてきた。 メディアの取材が入るたび「カリスマみたいに書かないで。舞い上がるだけだから」と冷ややかに言う。

2014年6月20日。
姉の猛反対を押し切った吉沢は、原発事故後に白斑の症状が出た黒毛和牛1頭をトラックに乗せ、牧場のある福島県から東京・霞が関の農林水産省前に乗り込んだ。
「牛は見せ物じゃない」が持論の伊東は引き留めても無駄だとみるや、逆提案でトラックに同乗した。
「どうしても行くというなら、俺も獣医だ。牛の健康を管理する責任がある。俺も連れて行け」

そもそも国も福島県も福島第一原発の事故後間もなく、20キロ圏の警戒区域内の被曝(ひばく)牛は移動禁止と指示していた。吉沢が「一揆」の前日、それを予告する声明を出すと、県庁からは「思いとどまるように」と何度も電話がかかってきていた。

農水省前で報道カメラマンのストロボが何度も光る中、牛を荷台から下ろそうとした吉沢は、阻止する警察官との間でもみ合いになった。結局、下ろすことは断念し、応対した担当者に牛の白斑調査やえさの確保を求める要請書を手渡した。
環境省前では、環境相の石原伸晃(58)の「金目」発言に対する抗議の演説をした。

そんな吉沢の怒りと行動力を支えているのは、父の遺産である牧場を「絶対に守る」との思いだ。
父・正三(しょうぞう)は1980年5月、今の「希望の牧場」で、横転したトラクターの下敷きになり即死した。66歳だった。
亡父が戦後、最初に開拓に入った千葉県四街道市で、静江は生まれ、吉沢らきょうだいと育った。市職員になったが、56歳で早期退職をし、浪江町の「吉沢牧場」の一角に住宅を建てた。原発事故さえなければ、老後はずっと、ここで晴耕雨読の生活が続くはずだった。
原発事故後も避難先の四街道市から毎週のように牧場へ通い、吉沢の牛飼いを手伝ってきた。

No.1310
18 再び棄民にするのか

福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)は千葉県四街道市で生まれた。
亡父・正三は戦後、この地で牛1頭から酪農で再起を果たし、家族を養い、子どもを育て上げた。
戦前、出身の新潟県小千谷地方から「満蒙開拓団」の一員として中国東北部(旧満州)に入植した。
敗戦直前、守ってくれるはずの関東軍はソ連の参戦を察知するや入植者らを見捨ていち早く撤退。取り残された開拓民のうち、親と生き別れたり、死別したりした多くの子どもたちが、中国人に育てられ、のちに中国残留孤児と呼ばれた。
正三自身は1945年8月、ソ連軍の捕虜となり、3年間のシベリア抑留・強制労働を経て、心身ともにボロボロになって帰国した。

「国は俺たちを再び棄民にしようとしている」。原発事故後の福島を語る時、戦後生まれの吉沢は、正三が乗り移ったかのように見える。 「国は行け行けドンドンとあおり立て、足手まといになったら棄(す)ててきた。黙っていたら俺たちも、ここの牛たち同様に棄てられるんだ。棄民は日本の国策なんだから」
原発の事故も、政府による家畜の殺処分指示も、吉沢の国への不信感を決定的にするのに十分すぎた。
「満州棄民に、シベリア抑留者に、戦後の日本政府はいったい何をしてくれたというのか」

吉沢は父の思いを代弁するが、正三自身は当時の苦労について、子どもたちには多くを語らなかった。生前、残留孤児のニュースが流れると妙に無口になるばかりだった。
正三は旧満州での逃避行で、動けなくなった実母と娘2人、つまり吉沢の祖母と2人の姉を自ら手にかけていた――父の死後初めて、吉沢は母から聞き、衝撃を受けた。
姉の小峰静江(63)は、母から手渡された手記「黒台開拓民の記録集」で当時のことを確認した。「荒野の自決」という章に、「棄民の真相」が実名で書かれていた。

浪江町の牧場の土地32ヘクタールは45年前、乳牛50頭を飼うまでになった正三が「もっと広い土地で酪農を」と、四街道市の土地を売って家族で移住した希望の場所だった。
東京農大に進んだ後、吉沢は学生運動にも明け暮れたが、父を手伝おうと浪江町に戻る。不慮の事故で父が亡くなると、牧場運営はやがて吉沢の双肩にかかった。
「だから、この土地を絶対に手放すわけにはいかないんだ」

No.1311
19 でも、見捨てない

福島県浪江町の「希望の牧場」は震災前、「吉沢牧場」と呼ばれていた。丘陵地に広がる32ヘクタールの土地は、吉沢正巳(61)が父の死や兄の経営失敗のあと、やはり酪農での再出発を考えていた場所だった。
だが、和牛繁殖で事業拡大を図る二本松市の農業生産法人・エム牧場の社長だった村田淳(60)が、この広大な牧草地に目をつけた。1997年ごろ、「浪江に広い農場が空いている」と知人に紹介された村田は視察に訪れ、「決断するのに0・5秒」と言うほど気に入った。すぐさま提携を申し入れる。
「打てば響く、という言葉がぴったりの頭の切れる男。割り切りも決断も速かった」初対面のとき、村田が抱いた印象通り、吉沢もほどなく提案を受け入れた。98年秋には、正式にエム牧場の浪江農場として肉牛の肥育・繁殖事業がスタートした。

最初は20、30頭から始めた事業も十数年でようやく軌道に乗り、牛の頭数も300頭を超えるほどに事業が拡大したところで、2011年3月の東京電力福島第一原発事故に見舞われた。
「まさに上り坂の途中だった」と村田は強調する。
「繁殖のために放牧する母牛は100頭、肉牛にするのは450頭までをめざす構想を練っていた」

原発建屋の爆発で牛の出荷が道を閉ざされた3月下旬、吉沢や牧場従業員らを二本松市のエム牧場本社に集め、村田は対策会議を開いた。
「売れない牛をどうするか?」
村田の問いかけに、十数人の従業員は沈黙するばかり。みんな、どうしていいか分からなかった。
牧場経営もビジネス。生かせばエサ代も維持費もかさむだけ。でも、エサをやらなきゃ、牛は死ぬ。
「見捨てたくない」
「見捨てない」
村田と吉沢の見解は一致した。
二本松市の本社から35キロ先の浪江町の吉沢牧場へエサの支援を続けると、村田も決断。覚悟を決めた。

「こうなったら、いかなる手を使ってでも避難指示の出た原発20キロ圏内に入り、エサをやり続ける」
地元の浪江町は3月15日、すでに役場ごと全町が避難していた。4月には、吉沢牧場を含む20キロ圏内が立ち入り禁止になった。吉沢は浪江町だけでなく、牧場の一部が市域にかかる隣の南相馬市にも、エサやりのための立ち入り許可を求めた。

No.1312
20 まるで兵糧攻めだ

福島県南相馬市。
市長の桜井勝延(さくらいかつのぶ)(59)は元々酪農家だった。「希望の牧場」の吉沢正巳(61)は「何としても牛を飼い続けたいという俺の思いは、同じベコ屋として分かってくれた」と話す。

東京電力福島第一原発で建屋が次々と爆発しても吉沢が牧場にとどまっていた頃、その桜井は市長として危機的な事態に向き合っていた。放射能が危険だから家の中で待機しなさい――。政府は、最初の爆発から3日後の2011年3月15日、市役所のある原町区が入る原発20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。が、「国、県から正式な情報がなかった」のは、隣の浪江町長・馬場有(66)が嘆いた状況と同じだった。

翌16日午後1時すぎ、ニュース映像を配信するAPF通信社(東京)の代表・山路徹(やまじとおる)(53)のインタビューを市長室で受けた桜井は、募るいら立ちを明かした。
「食糧も物資も圏内に入ってこない。政府はガソリンを送ったというが、タンクローリー車は圏外で運転手が置き去りに。コンビニでは売る物が、スーパーでは従業員がいなくなり、閉鎖。まるで兵糧攻めだ」 「率直な気持ちを」とマイクを向ける山路に、「心情を吐露すると感情的になる」と自制していた桜井の声が、怒りにふるえていく。
「津波に奪われた家族を捜しに行けない。遺体があがっても遺族は火葬ができない。油がないし、従業員も逃げたので火葬場は昨日、閉鎖した。生き残った者にとって、生き残ったことが地獄なんだ」
ビルマ(ミャンマー)、ボスニア、ソマリア……。世界の紛争地で取材経験のある山路も次の質問に詰まった。撮影役は、のちに「希望の牧場」のボランティアスタッフとなる針谷勉(40)。カメラを持つ手の震えを抑えるのに苦労した。

大手メディアは既に記者を引き揚げ、NHKは電話取材で市長の声を流した。「絶対に現地に入らねば」と、先に南相馬市内に入った針谷に山路が合流しての取材だった。しかし、日本の放送局からは「コンプライアンス(法令や社会規範の順守)で避難指示区域の映像は使えない」などと言われた。欧米のメディアが映像を買ってくれた。

インターネットで情報は流れ、「日本政府は何をやってるんだ」との批判が国際的にも高まった。当時の民主党の災害対策本部から現地調査に入ったのが、衆院議員だった高邑勉(41)らだ。

http://torikyou2013.blog.fc2.com/blog-entry-1348.html

No.1313
21 家畜はどうすんだ

「何しに来たんだ!」
2011年3月21日、福島県南相馬市の市長室。あいさつに訪れた民主党衆院議員1期目の高邑勉(41)は、市長の桜井勝延(59)から叱責(しっせき)された。東京電力福島第一原発の建屋が次々と爆発していた。が、南相馬市には、国や県からの避難指示情報がほとんど届いていなかった。食糧や燃料などの生活物資も滞り、「兵糧攻め」の孤立状態にあった。桜井はその窮状を内外のメディアに訴えていた。

民主党幹部が「支援物資を送っているのに届いていないとは? 誰か南相馬市長を黙らせてこい」と言うのを聞き、党の対策本部に詰めていた高邑が自ら手をあげた。しかし、到着した現地では、状況はまさに桜井が訴えていた通りだった。ほとんどの救援物資は、政府が設定した屋内退避指示の30キロ圏の外側で止まっていた。

「政府に実態が伝わっていません。何かお手伝いできませんか?」
高邑の言葉を聞くなり、桜井は「じゃあ泊まり込んで」と常駐を求めた。桜井の気迫に押された高邑は、地元の民主党関係者が借りていた事務所に泊まり込んだ。国会と南相馬市、そして各地の被災現場を行き来する生活が始まった。

当時の市役所には、行方不明の家族や原発事故の情報を求める人々、支援物資の不足を訴える人たちが次々と来て、殺気だっていた。不安や不満をぶちまける人もいた。
特に4月22日に原発20キロ圏内への立ち入りが禁止されてからは、「馬、豚、牛はどうすんだ」という畜産農家からの苦情が相次いでいた。
「飼い主が家畜のエサやりなどで入域できるようにしてほしい」。高邑は、桜井から政府との調整役を頼まれた。

東京のAPF通信社に勤めていた針谷勉(40)は、上司の山路徹(53)と市長インタビューを終えたあとも、同僚の木野村匡謙(43)らと南相馬市を拠点に避難区域内の取材を続けた。市内には、地元紙も含めたマスメディアの記者らがほとんどいなくなっていた。
市役所で高邑と出会った針谷は5月中旬、原発20キロ圏内の取材規制の厳しさと、一方で記者が現場に行くことの重要性を訴えた。高邑は、すぐに状況を理解し、自分たちの調査活動の「記録係」として同行を認めてくれた。

No.1314
22 真実を、伝え切る

2011年5月。
APF通信社の針谷勉(40)は同僚の木野村匡謙(43)らと、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域内の取材を続けた。福島県南相馬市役所で知り合った衆院議員の高邑勉(41)に同行し、ときには高邑の議員事務所のスタッフとして、検問を通った。
高邑は市長の桜井勝延(59)から、立ち入りが禁じられた警戒区域内の牧畜農家の要望を聞き、国との間で調整するよう要請されていた。しかし、政府からは12日、家畜の殺処分指示が出る。調整のため、初めは馬、次に豚、そして牛……と順番に対応を進めていこうとした矢先のことだった。

こうした中で針谷と木野村は、自身の人生を大きく変える浪江町の牧場主・吉沢正巳(61)に出会う。
吉沢牧場を訪ねた高邑が牧場の提携先の社長らから現状説明を受けている傍らで、吉沢は黙々と牛にエサをやっていた。いま、牧場見学者の前や東京の街頭で雄弁に演説をぶつ吉沢と同じ人物とは、とうてい思えない印象の初対面だった。
牧場へ通ううちに針谷と木野村は、吉沢の強烈な個性の虜(とりこ)になった。330頭の被曝(ひばく)牛をそのまま生かし続けるという「希望の牧場」プロジェクトに巻き込まれていく。

2人の部下とは別に、APF通信社の代表・山路徹(53)は警戒区域内で取材と並行して、取り残されたペットの救出に取り組んでいた。世界各地の戦争・紛争取材の中で、山路は「危険地帯に自己責任で入ることが許されない組織ジャーナリズム」に疑問を感じ、勤め先のテレビ局を退社。独立後の1992年、紛争地専門のニュースを扱う今の通信社を立ち上げた。
「震災・原発報道も戦争報道と変わらない」が持論だ。原発の爆発直後、針谷らが「20キロ圏内に入っていいか」と尋ねたときも、「『希望の牧場』を支援するスタッフになりたい」と伝えたときも、「自分で判断するように」とだけ答えた。

中立性を失うほど取材対象にのめり込む。コンプライアンス(法令や社会規範の順守)に反する。どれもマスメディアの取材活動としては、ご法度だ。組織が禁じる理屈もわかる。けれどそれでは、そこに暮らす人々の思いも真実も伝え切れない。
それが山路の報道哲学だ。「行きたい、伝えたいという者を止めたなら、この小さな会社をつくった基本原則が崩れ去る」

No.1315
23 命を見捨てられない

東京電力福島第一原発の事故を機に、被災現地の取材に入った2人のジャーナリストは矩(のり)を超え、福島県浪江町の「希望の牧場」を支援し始めた。
牧場主の吉沢正巳(61)にほれ込み、牧場のボランティアスタッフになった針谷勉(40)と木野村匡謙(43)。2人の「部下」を、APF通信社の代表・山路徹(53)はこう評する。
「2人とも頑固だからね。自分の中に確固とした正義をもち、それに従って行動している」

2011年7月、吉沢の思いを実現するため「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトが始動すると、針谷は「山路さんに迷惑がかかるから」とAPFの専属を辞めた。今は東京都内に独立した事務所をもち、そこに「希望の牧場」東京事務局も置く。
木野村はAPF東海支局長の仕事も続ける傍ら、岐阜県内から浪江町まで700キロを毎週のように車で通い続ける。牧場業務のために大型特殊免許まで取った。
2人の支えもあり、吉沢牧場が前身の「希望の牧場」は12年4月、非営利一般社団法人として新たな一歩を踏み出していく。提携先のエム牧場からも自立しようとしていた。

吉沢は目の前にいる牛を、どうしても殺せなかった。取材を踏まえて山路は吉沢を「今の時代に絶滅危惧種みたいな人だ」と言う。そんな山路も、人のいなくなった警戒区域の原発20キロ圏内を報じる中で、目の前の犬や猫の命を見捨てることができなかった。仲間とともに「犬猫救出プロジェクト」に取り組み、約60匹を救い出している。

「どんな場合でも命というものが最優先にされなくてはならない」
山路がテレビ局で働く報道マンだった頃から、戦争取材の中で学んできた原則であり、信念でもある。
伝えることよりも、中立であることよりも、命を選ばねばならないときがある。過酷な条件下であればあるほど……。それは「原発推進は人の命より経済を優先させることだ」という吉沢の持論にもつながる。

山路のように警戒区域内のペットレスキューを取材する中で、直木賞作家の森絵都(もりえと)(47)もまた、「希望の牧場」と出会い、心を揺さぶられ、突き動かされた一人だ。吉沢が発するたくさんの言葉たち。その「言葉の海」から、命の本質を突く「核心」を切り出し、絵本に結晶させられないか。

No.1316
24 「絵本にできる」確信

絵本「希望の牧場」を作るため、作家・森絵都(47)は福島県浪江町に牧場代表の吉沢正巳(61)を訪ねた。2013年の晩秋だった。
東京電力福島第一原発の事故から間もない11年春ごろから、20キロ圏内のペットレスキューに関わるボランティアたちの間で、吉沢は「知られた存在」だった。
森は犬・猫の救出活動のノンフィクションを執筆しつつ、牛舎につながれたまま餓死していく牛たちのニュースや吉沢の名に接するたびに、「この犠牲を何としても伝えたい」と気にかけていた。

所属する日本ペンクラブ主催の「脱原発を考える集い」が13年6月、東京の専修大学で開かれた。報告者として招かれた吉沢と初めて顔を合わせ、じかに話を聞き、悲壮感がないことに驚いた。それまでは「牛の話は悲しすぎる」と思い、絵本にして「お涙ちょうだい」の話になるのは嫌だった。
牛飼いが牛を飼う――あたり前のことを妨害するあらゆる力に対し、ひるまず挑んでいく「強さ」を吉沢に感じ、「ノンフィクションの絵本にできる」と確信した。

構想を練り、取材日程を調整し、編集者を通して絵を担当する画家を決めるのに5カ月かかった。この絵本の完成のためには、画家とともに現地を取材し、経験を共有することが必須だ。森はそう考えていた。
選んだのは、大阪市在住でイラストレーターとしても名を上げていた吉田尚令(よしだひさのり)(43)。
岩崎書店(東京)の編集者を介した依頼の電話に、森作品の愛読者でもあった吉田は「意義ある仕事」としながらも、現地取材という条件には、「数日待ってほしい」と返事を留保した。
福島の原発事故後、関西電力本店前の脱原発デモにも参加していたが、原発20キロ圏内の「希望の牧場」に入ることにはためらいがあった。

「あなたも子どもの父親でしょ」
電話を終えた傍らで妻が言った。3歳になったばかりの双子の男の子がいた。一方で妻は「どんなに反対しても行くんでしょ」と吉田の性格を見抜いてもいた。
「放射線量があまりにも高い所には行かないから」……。
話し合い、妻を納得させ、吉田は東京都内の集合場所に向かった。
11月20日。初めて組む作家と画家は編集者と新幹線で福島へ。駅前からはレンタカーで阿武隈高地を越え、浜通りに入った。

No.1317
25 絵に吐き出してやる

東京の出版社・岩崎書店の編集者が運転するレンタカーは、住民が避難して「無人の街」と化した福島県南相馬市小高区を抜けた。東京電力福島第一原発から北西へ14キロの地点。浪江町の「希望の牧場」が近づく。
作家の森絵都(もりえと)(47)と画家の吉田尚令(よしだひさのり)(43)が同乗していた。

2013年11月20日。前の座席で女性2人が会話を続けている。後ろの座席で吉田は無言のまま緊張していた。立ち入り禁止だった旧警戒区域内に初めて入る。除染土を入れた黒い袋が道路沿いに山積みにされていた。戸惑いつつ、持参したマスクは「しなくてもいいか」などとひとり思い悩んだ。

旧警戒区域内でペットレスキューを取材した森も、牧場に来るのは初めて。視界が開けると、丘陵地帯に300頭以上の牛がいた。 「人間がいない所にこんなに牛がいるなんて」その数や体格の大きさに「迫り来る生命力」を感じた。犬・猫の救出活動に同行したときは、飼い主を失って「薄らぎ、失われていく命」ばかりを見た。違いは大きかった。

牧場に着くと、吉沢がよどみなく、機関銃のように話し出した。次々と繰り出される言葉の豊富さに吉田は圧倒され、用意した質問がなかなかできなかった。吉沢の「言葉の海」の中のどこに本質があるのか、森は必死に探り出そうとした。この人は闘うだけの人間ではない。やがて、そう感じ取り、心をうたれた。
殺処分に泣く泣く同意した同業者からは「何でお前だけが生かしてるんだ」と非難されてきたが、吉沢は彼らのことを決して悪くは言わなかった。同じ牛飼いとしてのつらい思いも痛いほどわかっていた。
森は、そんな吉沢の心中の言葉も絵本に紡ごうと思った。1泊して翌朝、牛のエサやりを手伝った。

吉田は早朝、森らと別れて列車とバスを乗り継ぎ仙台へ。津波の被災地を抜けて市街に入ると、全く異なる都会の光景が目に入った。新幹線で地元・大阪の街に近づくにつれ、感情が抑えられなくなった。
突然、涙があふれ出す。夕暮れの車窓に泣きぬれた自分の顔が映る。牧場では感傷に流されないよう努めて冷静を装っていたが、腹立たしさがこみ上げてきた。
「何で吉沢さんが、こんな目にあわされるのか。見てきたものをすべて絵に吐き出してやる」

No.1318
26 覚悟も弱音も残そう

《もりもり食って、クソたれろ……おまえら、牛なんだから。オレは牛飼いだから、エサをやる。きめたんだ。おまえらとここにいる。意味があっても、なくてもな》

画家の吉田尚令(43)は2013年暮れ、作家の森絵都(47)から「希望の牧場」を絵本にするための原稿を受け取った。
目を通すうち、身震いが止まらなくなった。それまで10冊近く、有名作家の作品を絵本にしたが、こんな経験は初めてだった。
牧場主の吉沢正巳(61)が吐き出した一言一句の数々は、「言葉の海」のごとく際限ない。その中から、人の胸につきささる「鋭利な言葉」だけが、そこに残っていた。

「隣で一緒に聞いていたから、言葉を削(そ)いで削いで何を残したかが、このとき初めて見てとれた」
ひと月ほど前、福島県浪江町の牧場を取材した日の夜。森と吉田と編集者の3人は、南相馬市内の食堂で絵本の構想を話し合った。
吉沢を英雄扱いしない。説教臭い道徳的な物語にはしない。20~30年後、たとえ牧場がなくなっていても、こんな人物がいて、こんな牧場があったことを後世に残せる本にしよう――。
夜は更け、3人は店にあった最後のワインボトルも空けていた。

森は、威勢のいい吉沢の街頭演説には、さほど興味がなかった。吉沢が牛飼いの日常の中で呻吟(しんぎん)する一言一言に出会いたかった。牧場で語られた言葉を録音して持ち帰ると、「吉沢語録」を書き起こし、そこから何を残すかの作業に集中した。
《けど、弱った牛が死ぬたびに、ここには絶望しかないような気もする。希望なんてあるのかな。意味はあるのかな。まだ考えてる》こんな弱音や迷いの言葉を、吉沢は街頭では口にしない。森は、そんな牛飼いの「痛み」と向き合うために250キロ先の牧場に行った。

年が明けて吉田は、ほかの仕事を断り、この絵本作りに没頭した。しかし、吉沢が国の指示を拒み、牛と生きる道を選ぶ場面で絵筆が止まった。吉沢の覚悟を考えれば考えるほど、先に進めなくなった。
何枚も何枚もコンテを描いた末にようやく、「吉沢が牛を抱く絵」はできた。描き上げてみると、吉沢の方が牛に抱かれ、支えられ、助けられているようにも見えた。

そのころ、街頭から吉沢の「言葉の海」に飛び込もうとしていた意外な人がいた。

No.1319
27 群衆の中にいた文太

「菅原です。ブログを見ました。応援に駆けつけたいのですが」
2014年5月9日朝、「希望の牧場」ボランティアスタッフの針谷勉(40)の携帯電話に品のいい女性の声が響いた。留守にした東京事務所の代表番号からの転送だった。
針谷は、全国各地に散らばる400人近い牧場サポーターの1人かな、と思って聞いていた。

東京・渋谷のハチ公前で毎月恒例の牧場代表・吉沢正巳(61)の街頭演説がある日だった。女性は詳しい場所や時間を尋ね、続けた。 「実は俳優の菅原文太(すがわらぶんた)の妻なのですが、吉沢さんは終わったらすぐに帰られるんでしょうか? 文太と一緒に少しお話しさせていただくお時間はありますか? お食事でもしながら……」
針谷は驚いた。文太の妻・文子(ふみこ)(73)からだった。吉沢の都合を聞くまでもなく、快諾した。本業のジャーナリストとしての仕事があった針谷はすぐに、もう一人のボランティアスタッフ木野村匡謙(43)に吉沢への同行を依頼した。吉沢一人では心配だった。

「この渋谷の明かり、東京の電気はどこから来ているんですか? 福島が何十年も送り続けてきた電気ですよ」。よどみなく流れる、挑発するような、いつもの吉沢節が続く。「そして今、原発が爆発し、我々は蹴飛ばされ、棄(す)てられた。福島の差別と犠牲の上に皆さんの、便利で楽しい暮らしがあるんですよっ」
ハチ公前の群衆の中に、菅原文太はいた。帽子を目深にかぶり、腕を組み、じっと聴き入っていた。傍らには文子が寄り添っていた。その夕方、一緒に上京した専属獣医師の伊東節郎(66)や合流した木野村とともに、吉沢は菅原夫妻から永田町の「鰻(うなぎ)屋」に招かれた。

文子は「鰻屋」と言うが、鰻素材の豪華な懐石料理の店だった。
福島県浪江町の牧場には全国の支援者から米や野菜が送られてくる。が、独身の吉沢は料理などしない。即席ラーメンやコンビニ弁当で済ますことも多い。千葉県から支援に通う姉の小峰静江(63)がたまに、料理をしてくれるぐらいだ。
「見たこともない料理ばかり。こんな店、俺の生涯ではもう二度と来ることはないだろう」。そう思いつつ、吉沢は箸を取った。
吉沢たちが驚いたのは料理だけではなかった。会席には元大物国会議員も同席し、さらに意外な話が切り出された。

No.1320
28 料亭の夜、とんぼ返り

2014年5月9日夜、東京・永田町の懐石料亭。
福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)、専属の獣医師・伊東節郎(66)、ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)は、古民家のようなたたずまいの茶屋の2階に通された。

招いたのは、俳優の菅原文太と妻の文子(73)。もう1人、元自民党参院議員会長の村上正邦(むらかみまさくに)(82)も同席していた。3人はその日、東京・渋谷の街頭で吉沢が熱弁をふるう毎月恒例の演説をお忍びで聴いていた。
村上はかつて宗教団体「生長の家」などの支援で当選してきた「参院の首領(ドン)」だった。政界汚職に絡んで失脚し、獄中体験も経て、福島の原発事故後は「脱原発派」に転身。一つ歳下の文太の盟友となっていた。
「脱原発のためには党派を超えて連帯しなければ……」が持論の吉沢も、同席に異存のあろうはずがなく、杯を交わした。

「きょうの吉沢さんの演説、俺にはとてもまねできない。まだ日本にはこんな人がいたんだ、と思った。それを支える木野村さんのような若者がいる限り、この日本もまだまだ捨てたもんじゃない」 文太が称賛し、村上がうなずく。しかし、そのあとに出た話は、同じ年の秋に予定されていた福島県知事選出馬への打診だった。 「やってみないかい? 脱原発候補はあんたしかいない」
文太は熱心だったが、吉沢はいきなりで戸惑った。木野村は一瞬、思った。おもしろいじゃないか。でも、300頭以上の牛の世話は誰が?……。冷静に考えると、やはり実現の可能性は限りなくゼロに近かった。

宴席は夜9時すぎまで続き、文太らは上機嫌でタクシーを呼んだ。吉沢らが店の前で見送るとき、文太は窓を開け、心配げに言った。 「あんたたち今夜、どこに泊まるの? 泊まるところあるの? 宿、取ってあげようか?」
木野村が答えた。 「いえ、今夜は飲んでいない僕の運転で浪江の牧場に帰ります。朝の牛のエサやりがありますから」
文太は驚き、申し訳なさそうに返した。 「そうか、気をつけてな……」 やさしい人だなあ。そう感じた木野村も、まさか半年後の11月末に文太(享年81)の訃報(ふほう)を聞こうとは思ってもみなかった。

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