12/7・8(回らぬ核サイクル もんじゅ事故20年)(上)ムラは ずっとごまかし 職員の死 妻が問う「なぜ」 /(下)つきまとう秘密主義【東京新聞・朝刊・社会】

昨日の(上)はWeb上にあがっていた。
12/8は会社の先輩の誕生日でもあるのだが、戦争のはじまった日だけじゃなかった。もんじゅの事故の日だったんだと気づいたのは3.11の後だった。

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ムラは ずっとごまかし 職員の死 妻が問う「なぜ」

2015年12月7日【東京新聞・朝刊・社会】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120702000116.html

西村成生さんの遺影の前で事故に関する資料を見つめる妻トシ子さん=東京都足立区で

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高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)で一九九五年十二月、ナトリウム漏れ事故が起きてから八日で二十年を迎える。この事故では一人の職員を死に追いやった。「夫はどうして死ななければならなかったのか」。東京都足立区の主婦西村トシ子さん(69)はこの二十年、ずっと問い続けてきたが今も分からない。事故で明らかになったもんじゅの、日本の核燃料サイクルを取り巻く“ムラ”の本質は「変わらない」とトシ子さんには思える。(中崎裕)

事故から一カ月ほどすぎた九六年一月十三日、土曜日の朝だった。目覚めても夫の成生(しげお)さんの姿がなかった。

もんじゅを運営していた動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の総務部次長として、情報隠し問題の内部調査に奔走していた。事故以来、仕事が終わらず職場に泊まり込むのはしょっちゅう。だが、そんなときも心配しないよう必ず連絡があったのに…。間もなく、夫の上司から「病院に運ばれた」と電話があり、慌てて駆け付けた。きのうの朝、いつものようにコーヒーを流し込んで出掛けていった夫が、霊安室で冷たく横たわっていた。

夫は亡くなる前日の記者会見で動燃に有利に働くうその情報を発表したのを苦にホテルから飛び降り自殺したとされた。動燃が取り仕切った葬儀には理事長や国会議員、官房長官など千五百人が参列。マスコミの厳しい追及が死者を出した-というムードが生まれ、情報隠し問題は収束に向かうことになる。

「何か、おかしい」。トシ子さんは納得できなかった。直前の正月、長男が年内に結婚を考えていることを報告していた。亡くなった翌日は次男の成人式。家族宛ての遺書はそれらに、ひと言も触れていなかった。

何より、あれだけの葬儀をしてくれた動燃が、夫の生前の様子や勤務状況、仕事の内容の説明を求めても応じてくれない。夫とは職場結婚だった。かつての同僚に様子を尋ねたが、「分かっていても話せない」と言われた。動燃から一応の説明があったのは、死から九カ月ほどたった十月末。労災申請をするために頼んで出てきた勤務記録は、なぜか、亡くなる直前の三日分が空白だった。

二〇〇四年、うその発表を強要され、自殺に追い込まれたとして損害賠償を求める裁判を起こした。事故の反省を踏まえ、運営主体は動燃から核燃料サイクル開発機構に替わっていた。裁判になれば、夫がどんな思いで仕事をしていたのか、少しでも分かるだろうと思っていた。

だが、証人尋問に立った同僚たちから出たのは「何で死んだのか分からない」「勝手に想定問答に書いていないことを発表した」といった話ばかり。夫の苦悩に迫れないまま、うその強要は認められず、一二年に最高裁で敗訴が確定する。

亡くなった翌年に生まれた孫は今年、高校三年生になった。「なぜ、おじいちゃんが亡くなったのか、教えられないままなんです」。西村家にとって事故はまだ終わっていない。

組織改編を繰り返し、現在、もんじゅを運営する日本原子力研究開発機構も「失格」の烙印(らくいん)を押された。「点検漏れなどの話を聞いていると、組織を優先し、ずっとごまかしで(運営を)やってきたとしか思えない」。トシ子さんは仏壇に飾られた夫の遺影に目を落とした。

核燃サイクル政策を揺るがせた事故だが、国民の信頼を失ったのは高速増殖炉の危険性が明らかになったから、だけではない。「事故ではなく(その後の)対応が二十年の停滞を招いた」。事故当時、動燃の広報マンだった男性はそう述懐する。

<もんじゅ> 1991年に動燃が建設した国内初の高速増殖原型炉。発電しながら燃料を増やす「夢の原子炉」とのふれこみだったが、95年に冷却剤の液体ナトリウムが漏れ、火災が発生。事故の隠蔽(いんぺい)工作もあり、動燃は核燃料サイクル開発機構に改組。2005年に現在の日本原子力研究開発機構(原子力機構)となった。その後も点検漏れやミスが相次ぎ、今年11月、原子力規制委員会が運営主体の変更を勧告。これまで1兆円を超す税金が使われたが、運転は計250日にとどまる。

つきまとう秘密主義

(回らぬ核サイクル(下) もんじゅ事故20年)

2015年12月8日【東京新聞・社会】

「能力は平均値以下だ」。十一月二日、東京・六本木で開かれた原子力規制委員会の会合。高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)を運営する日本原子力研究開発機術(原子力機構)かの意見聴取で、委員から容赦ない言葉が飛んだ。傍聴席で機構OBの武井博明さん(六八)は悔しさで胸苦しくなった。「あの時と変わらないじゃないか・・・:」

一九九五年十二月八日夜、もんじゅでナトリウム漏れ事故が起きたとき、原子力機構の前身で当時の運営主体、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の広報マンだった。事故直後から泊まり込みで報道対応に追われた。十日ほどすぎ、少し落ち省いてきたころ、事態は急転する。

福井県などの調査で、事故後に公開した現場のビデオ映像に編集が発覚したのだ。動燃トップは会見で意図的だったと認め「大事故で戸惑いがあった」と釈明した。さらに二日後、科学技術庁(当時)の立ち入り検査でも現場に入った時刻の虚偽説明や、新たな映像隠しなども明るみに。「そんなこと知らされてなかった」。武井さんは足をすくわれる思いがした。

世間から「ウソつき動燃」と呼ばれ、パッシングの嵐が吹き荒れた。「直後の対応ミスが事故を事件にしてしまったんです」

きょう八日で事故から二十年。そのミスが事故後、まともに運転すらできなかったもんじゅの未来を決めたといえる。

日本の原子力政策には「秘密主務」がつきまとうが、核燃料サイクルの要を担い、核兵器にも転用できるプルトニウムを扱うもんじゅではなおさらだ。「情報は限定するのが当たり前。十のうち出すのは二くらいという文化で、世間の感覚とずれていた」。武井さんが打ち明ける。

事故以降、武井さんは地元の記者クラブで毎週、技術者を伴い、状況報告をするようになった。ふだん、施設内から出ない技術者に世間の感覚を「肌で知ってほしかった」からだ。

だが、動燃から生まれ変わったはずの原子力機構も今、容赦ない批判を浴びている。ここ数年で一万件以上もの点検漏れが発覚。規制委は機構を運営主体として「不適絡」と断じ、変更を勧告した。結局、世間とのずれは解消できなかったのか。技術者が参加する状況報告もいつからか広報担当者だけになった。

原子力機構をめぐっては、OBらがいるファミリー企業との関係も問題視されてきた。

本紙の調べでは今年九月末までの一年余で、発注の二割ほどがファミリー企業に流れている。「核物質の防護に関する情報が広がるのを限定するため」(広報担当者)と、ヒミツを守るためにはやむを得ないらしい。ファミリー企業が担う業務には「他のところでもできる」(武井さん)という点検なども数多く含まれるのだが・・・。

十一月二日の規制委の会合で、機構は「とにかく今後を見ていただきたい」と訴えた。しかし、委員からはこんな言葉が出た。「もう十分待った」   (古根村進然、中崎裕)
科学技術庁(当時)が公開した事故翌日の現場。動燃が撮影していた。

馳浩文科相(右)に勧告書を手渡す原子力規制委員会の田中俊一委員長

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