12/15″The Bomb” 〜 アメリカがどのように原子爆弾を開発したか、そしてそれがどのように世界を変えたか、について知ろう。2015.7.28.【yoko’s 人生=旅 on this planet】さんより

「yoko’s 人生=旅 on this planet」のyokoblueplanetさんに、原子爆弾リトルボーイは試運転せずに広島で投下したのか、そのあたりをお聞きしたことがある。
そうしたら、PBSでそのあたりのことが載っている番組があったそうで、日本語に解説してくださった。yokoblueplanetさんありがとう!

PBSは視聴できなかったが、youtubeに動画があったので日本でも映像を見ることができる。

thebomb pbs youtube

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“The Bomb” 「爆弾」

〜 アメリカがどのように原子爆弾を開発したか、そしてそれがどのように世界を変えたか、について知ろう。

http://yokoblueplanet.blog112.fc2.com/blog-entry-13091.html

**約2時間の “The Bomb” – 「爆弾中の爆弾」と云えば良いでしょうか。全部書き起こせば良いのですが、そこまで今時間がありません。PBS の番組紹介の後に、「爆弾」開発関連、その後の事件の流れを、番組から拾った年代でメモ的に書きだしておきます。言葉が全部分らなくても、当時のフィルム資料が多用されていますので、十分流れは掴めると思います。**

“The Bomb” 〜 Learn how America developed the atomic bomb and how it changed the world. 2015.7.28.(PBS)
http://www.pbs.org/program/bomb/

このプログラムについて

それは特に他意もなく始まった。1938年二人のドイツ人化学者がウラニウム原子の核を割る方法を偶然に発見した:核分裂。アインシュタインの E=mc2 等式は、たった一個の原子から放出されるエネルギー量は膨大になるだろうことを予測していた。

世界中の物理学者たちは、分裂が猛烈な力を持つ爆弾を作り出すだろうとすぐ気づいた – そしてナチス・ドイツが、そのような爆弾を作り出す力を持っている可能性があることも。アドルフ・ヒットラーが核兵器を持つと云う脅威は、その爆弾を誰よりも早く開発し、ヒットラーを阻止するための競争となった。結果として、容赦なく、広島、核兵器開発競争、水素爆弾、キューバ危機、そして世界史の中で未曾有の恐怖と緊張へと進む一連の出来事が動き出した。

史上初めて、ヒトは自分自身を破壊する

能力を手にした

この番組 “The Bomb” は、単純な科学的好奇心として始まったことが、最後には文明を終焉させる力を持つ兵器にどのようにしてなったのかを検証する。この発明は、「人類史の中では1,000年に一度の変化だった:初めて、一つの種として、我々自身の破滅を引き起こせる状況にある」と、歴史家リチャード・ローズ (Richard Rhodes) は語る。

この番組では、「爆弾」の歴史を紐解き、その創造に携わった人々の成功、失敗、倫理的ジレンマを見て行く。どのように開発されたのか、国際関係から政治、文化、セックスまで、如何に早くすべてを変えてしまったかについて学んで行く。

火の発見に勝るとも劣らず、この「爆弾」は人類史の中でその前にあったもの全てと、その後に来たもの全ての間の分割線となった。史上初めて、ヒトは自分自身を破壊する能力を手にした、そして未だにこの強烈な力とどう折り合いを付けて生きるのかを学ぶために苦しんでいる。初めてそれが出現して数十年後、「爆弾」は人々の意識の中で薄れて来た – が、我々の生活に影響を及ぼし続けている。

この番組では、「爆弾」の時代を生き、開発に携わった化学者、兵器設計者、核爆弾を落としたパイロットたち、国際外交に「爆弾」が及ぼす影響と取り組んだ元国防省長官、核爆発の目撃証人たち、歴史家、一般の市民からの声を拾っている。

制作はローン・ウォルフ・メディア (Lone Wolf Media) 。

被曝 〜 “a terrifying invisible killer”

「恐ろしい目に見えない殺人者」

1個の「爆弾」の歴史は70年前に始まった。
現在、アメリカ合衆国とロシアが持つ核兵器数は60,000に及ぶ。

1)核分裂の発見 – 1938年 ドイツ人化学者2人が、中性子をウラニウム原子にぶつけると、原子が分割され、その時に膨大なエネルギーが産み出されることを発見。

ベルリンでは、アドルフ・ヒットラーが、第二次世界大戦を始めようとする時だった。

科学者たちは、偶然発見された核分裂から作られるであろう「原子爆弾」の脅威に気づき、アインシュタインにルーズヴェルト大統領に対し、手紙をしたためるよう依頼した。その結果、ウラニウム研究プロジェクトが発足した。

が、1940年には日本軍によるハワイの真珠湾攻撃が勃発。

2)マンハッタン

「爆弾」の製造はニュー・ヨーク市に駐屯するアメリカ陸軍工兵隊 (US Army Corps of Engineers) が受け持つことになったことから、「マンハッタン」と呼ばれるようになり、総勢50万の人々が関わるプロジェクトとなった。

プロジェクトの責任者には、グローヴズ大佐 (Col. Groves この時に昇進し、将軍) が任命され、コロンビア大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学バークレー校の科学者たちとの「爆弾」開発研究が開始された。

皆、一筋縄では行かない、一家言を持つ科学者たちを束ねるに適した人物は誰か。グローヴズ大佐は、複雑なことを非常に分かりやすく明快に説明することが出来たバークレーの物理学教授、ロバート・オッペンハイマー (Robert Oppenheimer) に白羽の矢を立てた。グローヴズは、研究に必要な人材、物資、何でも調達することができる立場にいた。

1942年 – 自然界にあるウラニウム235が、ウラニウム238に含まれる量は、1%の10分の7。その Ur235を取り出し濃縮するための工場がテネシー州オークリッジ (Oakridge, TN) に建設された。至難の業であり、「爆弾」製造に必要な量を取り出す作業は、遅々として進まなかった。

1943年 – プルトニウムを使う案が出され、ワシントン州コロンビア川流域にあるハンフォード (Hanford, WA) に世界初のプルトニウムを取り出すための原子炉が建設された。

この時点で、日本軍はフィリピンを占領。ドイツの U ボートが戦禍を大きくしていた。
ナチスは、「爆弾」の製造に、どれ位近い所にいるのか?

3)秘密の町

1942年 – この「爆弾」の開発には、機密厳守が最重要のため、人里離れたニュー・メキシコ州のロス・アラモス (Los Alamos, NM) が選ばれる。オッペンハイマーは、最適の場所であるとグローヴズに語った。国有林にあった校舎が活用された。400人ほどの科学者が選ばれ、この「爆弾」の研究開発に従事するが、女性は10名だけだった。

“Silence means Security” 「沈黙は安全なり」(?)のポスターが出された研究開発現場。
ここでの「爆弾」を呼ぶ名前は、”the Gadget” 「ザ・ガジェット」だった。

テネシー州オークリッジの工場/町は、一夜にして作られた。ロス・アラモスの環境は原始的なものだったが、平均年齢25歳の科学者、軍関係者などには、『ナチスを打ち負かすための「爆弾」』関わることは苦ではなかった。

1944年春 – 「爆弾」製造に必要な量のウラン燃料が出来ていなかった。このプロジェクトの成功は、今、プルトニウムの生産に掛かっていた。だが、プルトニウムの粉末は、融けるが爆発しなかった。

1944年夏 – ナチス・ドイツは、ロケット開発に成功。

ロス・アラモスでは、問題への新しい取り組みが始まっていた:爆弾の燃料に圧をかける内破の方法 (implosion) を、これまでの爆発 (explosion) に替わって使う。

この時期、ドイツからの難民、共産主義者であるあまり語らない物静かなクラウス・フックス (Klaus Fuchs) が研究開発に加わる。

1945年始め – ヨーロッパ戦線は終結に向かっていた。

1945年4月 – ルーズヴェルト大統領死去。「爆弾」の事をまったく知らなかったトルーマンが大統領に就任。
ルーズヴェルトは、トルーマンに「爆弾」についてひと言も知らせていなかった。

1945年5月 – ドイツ降伏。ナチスが、原子爆弾を使うのでは無いかと云う脅威は無くなった。
日本が唯一の敵国となり、6インチの槍型、プルトニウムを芯に持つ3年がかりの「ザ・ガジェット」の標的となる。

1945年7月 – ポツダムで列強首脳が交渉中に、ターゲット実験が行われる。
7月14日 – $350 mil のプルトニウムの箱
7月16日 – グローヴズとオッペンハイマーが3年をかけた、史上最悪の戦いに勝つチャンスを握る「爆弾」が          爆発に成功。

「爆弾」は今まさに全てを変えようとしていた。
この内破「爆弾」は、プルトニウムが製造されれば、幾らでも製造できる状態になっていた。

が、「爆弾」成功のニュースがポツダムに届けられても、スターリンは動じなかった。ドイツ難民、クラウス     ・フックスが、この原子爆弾について、すべてをソ連に伝えていたのだ。フックスはスパイだった。

連合軍は、日本の都市に焼夷弾を落としていた:一夜にして10万人が死亡する事態になっていたが、日本は降伏に応じなかった。

1945年7月26日 – 日本に対して最終通告が出される。無条件降伏をするようにと。だが、日本側は拒否。

4)決断

1945年8月6日 – トルーマン大統領は「爆弾」の使用を命令しなかった。「爆弾」製造の勢いがそのまま継続しており、トルーマンは、余計な口出しをすることを避けた。テストもされなかった「リトル・ボーイ」”the Little Boy” と名付けられた原子爆弾が、エノーラ・ゲイ機に載せられ、08:15に広島の上空に落とされた。

華氏10,000度の熱を産み出したこの「爆弾」は、少なくとも80,000人を殺した。飛行機1機、「爆弾」1個だ。
しかし、日本は降伏しなかった。

日本は無条件降伏を避けるために、ロシアと秘密の交渉に入っていた。が、その2日後、ロシアは満州に侵攻してきた。

1945年8月9日 – 「ファット•マン “the Fat Man”」と呼ばれた「爆弾」は、この日、九州の小倉に落とされるはずだった。小倉に向かった爆撃機 B-29 は、曇り空のため、「ファット•マン」を小倉に落とせなかった。そのため、予備標的地だった長崎に向かった。70,000人が死んだ。

日本の指導者たちは、国民の苦しみを気にかけなかった。

グローヴズは、更に「爆弾」を使いたかったが、トルーマンが止めた。

日本の指導者たちの最大の懸念は、天皇制保持だった。

長崎には連合国側の兵士73名が収監されていた。彼らはこの「爆弾」の目撃者になった。

1945年9月2日 – 日本が、降伏書に署名。

ここから「アトミック・エイジ 原子力時代」が始まる。

5)結果

ソ連の原子力爆弾はいつできあがるのか?広島の写真をスターリンが見るや否や、世界は核兵器開発競争に入る。

ソ連が核兵器製造に取りかかる。ロス・アラモスにいたソ連側の二人のスパイ、ドイツ難民のクラウス・フックスと「ファット・マン」の内破装置開発に携わったテッド・ホール (Theodore Hall) のために情報は筒抜けだった。アメリカ側の誰も、ソ連の「爆弾」製造がどこまでできているのか、皆目見当がついていなかった。

ロス・アラモスでの活動はまだ継続されていたが、大学での研究に戻る科学者や市井に戻る人たちが転出したことから、人口は最盛期の3〜4,000人から1,000人に1週間で落ちた。

6)転換点

1946年6月 – アメリカ原子力委員会 (AEC) 、原子力が軍管轄から民間へ移される。

1946年 – ビキニ環礁核実験「クロスロード作戦」 “Cross Roads Operation”
空軍と海軍の競争の結果、海軍は未だ終っていないことを証明するために、原子爆弾3発と船95艘が使われた。(注:第二次世界大戦で、陸軍の一部であった空軍は軍の中心的大活躍をするようになり、その後独立した「空軍」となった。)

1946年7月1日 – 1)エイブル (Able) 地上158m核実験、記者団など多くの民間人が約40km離れた場所から、この実験を見学した。24,000 TNT の規模だった。

7月25日 – 2)メーガン (Megan) は水中25m核実験だったが、当初から科学者は海洋汚染になると反対していた。爆発による海水の上昇は約305mにもなったが、27艘が沈没しただけで、75艘の軍艦がこの衝撃に耐えた。が、問題は、放射性物質による軍艦の汚染だった。

スタッフォード医師 (Dr. Stafford) は、被曝を “terrifying invisible killer” 「恐ろしい目に見えない殺人者」と呼び、この作戦を止めさせようとした。放射能汚染された船舶の除染は上手く行かなかった。海水で洗い流すにしても、その海水が既に汚染されていたのだ。責任者であったブランド提督 (Admiral Bland) によって、クロスロード作戦は3発目のチャーリー (Charlie) 水中核実験を待たずにキャンセルされた。

被爆した軍艦の内、除染が成功したのはたったの9艘だった。

1946年7月 – 核爆弾をもっと製造し、実験せよ。

7)フォールアウト/死の灰 或は 後の衝撃

1946年8月31日 – ニュー・ヨーカー (the NEW YORKER) 誌にジョン・ハースィー (John Hersey) の “HIROSHIMA” が発表される。“noiseless flash” 「無音の閃光」の表現された「爆弾」が、ヒロシマの1年後、まったく新しい観点から描写され、その反響は大きかった。

1940−45年に陸軍長官 (Secretary of War – 1789年から1947年9月18日までの制度) を務めた共和党議員ヘンリー・L・スティムソン (Henry L. Stimson) は、原子力爆弾の開発、製造に直接関わった最終決定権を持った人物だったが、「なぜ原子力爆弾を使ったのか」を発表(詳細メモとらず。。。)

8)アトミック・ワールド

原子力が奇跡的な素晴らしい結果を産み出すと広報。
「原子力の町」

その熱気は至る所に表現された:水着のビキニ (Bikini) は、ビキニ環礁での核実験の4日後にデザイン、発表された。巷は原子力の威力湧いていた。

1947年 – 長崎に使われた内破式の「ファット•マン」は、手作りだったが、新しい原子爆弾「サンドストーン」は大量生産が可能だった。

1948年 – マーシャル諸島での新しい原子爆弾実験プロジェクト、「サンドストーン・プロジェクト」 “Sandstone Project”

1948年 – ソ連、カザフスタンで原子爆弾を爆発させる。(注:聞き間違いの可能性もあるので、後で再調査します。歴史書では、1949年8月29日が初の核爆発となっています。)

1946年2月までロス・アラモスにいたシカゴ大学教授の理論物理学者エドワード・テラー (Edward Teller) は、水素爆弾の製造は可能であるとしていたが、オッペンハイマーは、テラーの理論が非常に曖昧であった事も有り、水素爆弾の開発に消極的だった。

ソ連が核爆発に成功した2ヶ月後、トルーマン大統領がロシア包囲網策を決定。水素爆弾の開発を許可する。
ドイツ難民であったロス・アラモスの研究者、クラウス・フックスがスパイとして逮捕される。

アメリカは悪名高い「赤狩り」の時代に突入する。

1950年朝鮮戦争勃発 – 南北朝線が戦うアメリカ合衆国とソ連の代理戦争だった。この時、0時7分前から始められた「世界終末時計 (Doomsday Clock) 」は、0時3分前に進められた。政府が、アメリカ市民のための生き残りのためのテストを始める核シェルター製造の時代に入る。

生き残りは国の責任ではなく「あなたの責任 (Your Responsibility) 」となり、すべての市民の「覚悟」を問い、軍隊化が進んだ。

核兵器が、国際外交の土台となった。

1954年3月1日、南太平洋で70トンの水素爆弾キャッスル・ブラヴォー (Castle Bravo) が炸裂:時代は熱核融合時代に入った。この水素爆弾実験の規模は、TNT1千万トンに匹敵する。

9ヶ月後、ソ連が水素爆弾の初実験を実施。

9)魔女狩り

ソ連とアメリカの間の緊張は高まり、「レッド・スケア 共産主義の恐怖」(Red Scare) も最高潮に達した。ロス・アラモスの責任者であったロバート・オッペンハイマーが攻撃の対象にされた。

オッペンハイマーの身内には共産主義者がいた。さらに、水素爆弾を提唱していたエドワード・テラーの不利な証言のため、オッペンハイマーのセキュリティ許可 (security clearance) が原子力委員会のストラウスによって取り消される結末になる。

1954年3月1日 – 水素爆弾実験2回、TNT 1千500万トンに匹敵した。これはヒロシマに落とされた「リトル・ボーイ」の1,000倍の規模だ。

マーシャル諸島の島民200名が病気になる。死の灰が国際問題になる。第五福竜丸やその他の漁船員が被爆したのもこの3月1日だ。

10)抑止力

戦略空軍司令部 (Strategic Air Command – SAC)
アイゼンハワー:ソ連のどんな攻撃も大量の核兵器報復攻撃に迎えられるだろう。

”Sunday Punch” = 「ノックアウト・パンチ」

1953年に11,000発あった大小各種核兵器は、1960年代に31,000発を超え、31種類の兵器になっていた。開発担当者は、原子力手榴弾も製造できるが、それを使おうと云う馬鹿なヒトはいないだろうと語っていた。

「お前より、俺たちの方がたくさん持ってるぞ」の精神構造。

ソ連、50メガトン、TNT 100万トン相当の核爆弾

「双方共に確実に破壊される状況」”Mutually assured destruction”

1962年10月 – ソ連のフルシチョフ、冷戦地図を書き換えるため、キューバにミサイル基地建設。

ケネディのTV放送されたスピーチ:だが、この時、ソ連側の核ミサイルはキューバに設置されていた。が、ケネディはその事実を知らなかった。この危機一髪のキューバ危機の後、フルシチョフはキューバからミサイルを撤去し、ケネディはロシア国境周辺から内密に核兵器を撤去した。

1963年に「核兵器に反対する女性たち “Women against the Nuclear Weapons” 」が立ち上がり、大気圏核実験禁止条約が締結され、地下実験へと移った。

1945年から1962年の間に、200発以上の核爆発実験が行われていた。

1992年までに、800回以上の地下核実験が実施されることになる。

まるで “Dr. Strange Love” の世界だった。

1986年10月 – レーガン大統領とゴルバチョフ大統領の時代に、アイスランドのレイキャヴィック (Reykjavík) で開催された首脳会談 (Reykjavík Summit) で核兵器競争は終結するかに見えたが、それは翌1987年の米ソ間の中距離核戦力全廃条約 (Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty) を待たねばならなかった。

1989年11月9日 – 東西ドイツを隔てていたベルリンの壁崩壊。
1991年 – ソ連邦の崩壊。

60,000余の核兵器が残された。

”Most Incredible Insanity”

フルシチョフの息子:”If you start a war, you’ll lose more than you’ll gain.”

「核の冬 “Nuclear Winter” 」の所為で、20億人が命を落とすだろう。

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