桂春団治さん死去 85歳 上方落語最後の四天王/(評伝)「完壁主義」貫く【1/14東京新聞・夕刊/1/15中日新聞・中日春秋のコラム】

2011/3/19の演目は「鮑のし」だったのを思い出した。

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師匠の落語をナマで聴かせていただいたのは、5年前2011年3月19日だった。
震災直後で至る所で自粛されていた落語会であったが、文楽劇場で開かれた故笑福亭松喬師匠の還暦記念の落語会で、桂春団治師匠と桂ざこば師匠がゲスト出演されていたのを覚えているし、 羽織をスルっと優雅に脱がれたのも覚えている。枕ばっかりでネタはなんだったのか分からないざこば師匠とは対照的だったが、演目は忘れたのが残念だ。
東京新聞の文化部はご存知ないだろうが、春団治師匠とファンの交流の旅行会が(温泉とか)時々あったらしい。行きたいわと東武トラベルさんには伝えていたのだが、それももう叶わない。
それで、どなたがこの「春団治」を継がれるのだろう?福団治師匠かなぁ?
なお、最後の中日春秋に出てくる戸田学著『上方落語の戦後史』は分厚いがお薦めである。
この本ももちろん隆祥館書店さんご推薦である。

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桂春団治さん死去 85歳 上方落語最後の四天王

1月14日【東京新聞・夕刊】

落語を演じる桂春団治さん=2010年4月、横浜能楽堂で

戦後の上方洛語の復興に尽くした「四天王」最後の一人で、華やかな高座姿と洗練された話芸で人気があった大御所、三代目桂春団治(本名河合一 -かわいはじめ-)さんが九日心不全のため死去した。八十五歳。大阪市出身。葬儀・告別式は親族や直系の弟子らで済ませた。喪主は妻成子-しげこ-さん。

一九四七年父である二代目春団治に入門した。父の死後五九年に二十代後半の若さで三代目を襲名。明治から昭和初期にかけて、豪快な話芸で「爆笑王」の異名をとった初代から続く上方落語を代表する大名跡を守った。

端正で、艶やかな高座のスタイルを二代目から受け継ぎ、磨きをかけて人気を集めた。戦後衰退していた上方落語に活気を取り戻すことに尽力し、いずれも故人の六代目笑福亭松鶴さん、三代目桂米朝さん、五代目桂文枝さんと共に「四天王」と呼ばれた。

完璧さを追究するのが信条で、得意とした演目は「いかけ屋」「皿屋敷」「野崎詣-まい-り」「お玉牛」など。

若手の育成にも尽力し、桂福団治さんや故ニ代目桂春蝶さんら多くの弟子を輩出した。体調不良で近年は高座から遠ざかっていた。七七年から八四年まで上方落語協会会長も務めた。七八年に上方お笑い大賞、九八年に紫綬褒章、二OO四年に旭日小綬章を受けた。

(((評伝))) 「完壁主義」貫く

「完壁主義」「格調」「練り上げ」「繊細」-。三代目桂春団治さんの落語を語るとき、必ず浮かぶのはこんな形容だ。噺(はなし)の人物般定や背景をとことん追究し、納得のいくまでは高座にかげない姿勢は若いころから不変だった。その裏には上方落語の代名詞ともいえる大名跡「春団治」を継いだ者としての自負と責任感があった.

「両師匠(初代、二代目)の名前を傷つけないように、いつまでも愛される春団治でありたい」と、折に触れて語っていた。戦前、「爆笑王」の異名を取り、派手な私生活が伝説化した初代。一方、二代目は端正、粋(いき)を求める芸風に転じ、三代目はその芸風をさらに練り上げた。枕噺をほとんど振らず、本筋に入っていくスタイルはダンディーで、女性ファンも多かった。

的確な情景描写、計算された間(ま)、品のある話しぶり、構成の妙、艶やかな色紋付き姿・・・。高座は芸術空間にまで高まって、笑わせるより「うならせる」という表現が当てはまった。

とりわけ人気があったのが羽般を脱ぐ所作。両手を袖に掛け、すっと羽織が落ちると、これを楽しみにしていた客席に「ほっ」とした空気が流れたものだった。

大の野球好きで、一門のチームを結成するまでに。実際にプレーした時は、出塁すると必ず盗塁を試み、次のバッターに「走るまで打つのは待ってくれ」と頼む、愛すべき素顔ものぞかせたという。

晩年は体調を崩し入退院を繰り返した。関係者によると、リハビリを続け復帰への執念を見せる一方、自身が納得する芸ができるまでは高度に上がろうとせず、最後まで「完璧主義」を貫いた。そこに上方落語四天王の最後の一人として、伝統を守り抜こうという強い意志を見たような気がする。(共同・八代到)

 

2016年1月15日【中日新聞・コラム(中日春秋)】

http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2016011502000105.html

初代は伝説の爆笑王、二代目はその死をもって「上方落語は滅んだ」と評された名人。それほど重い「春団治」の看板を二十代で継いだのが、三代目桂春団治さんだ

▼そのころ、酒席で桂米朝さんと口論になったという。大名跡を背負っていくには持ちネタが少なすぎないかと米朝さんに言われ、春団治さんは腹を立てた。だが翌朝、目覚めた米朝さんの前には、正座し頭を下げる春団治さんの姿があった

▼年齢は米朝さんより下だが、噺(はなし)家としては先輩。普段は「米朝くん」と呼ぶ友に礼を尽くし教えを請う姿に胸を打たれた米朝さんは十八番の「代書屋」を伝授し、自ら演じることを封印したという(戸田学著『上方落語の戦後史』)

▼名人二人の稽古に居合わせたことがある桂福団治さんが、その様子を活写している。<天下の三代目春団治が、扇子を前に置いて、「よろしくお願いいたします」と、きっちり挨拶(あいさつ)してからお稽古が始まるんです。で、終わったらまたいつもの三代目と米朝師匠の関係に戻りますねん。見ていてほれぼれしましたな>(『青春の上方落語』)

▼二代目が逝去したころには滅亡の危機にあった上方落語は、三代目春団治、米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝の「四天王」が互いに磨き合い、弟子を育てることで息を吹き返した

▼ほれぼれとさせる芸の余韻を残し、三代目の人生の幕が下りた。

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