1/28原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島【京都大学原子炉実験所第50回学術講演会報文集 原稿より】(京大原子炉)今中哲二

昨日から開催されている「京都大学原子炉実験所第50回学術講演会」で、今日(1/28)今中さんが発表される。
特別講演
S2)14:00~15:00    座長 福谷 哲
「原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島」
原子力基礎工学研究部門(放射性廃棄物安全管理工学研究分野) 今中 哲二

その原稿を頂戴したので、ご本人に無断でup.

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京都大学原子炉実験所第50回学術講演会報文集 (2016年1月28日)原稿

原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島

 (京大原子炉)今中哲二

個人的なこと:

私が原子炉実験所に助手として着任したのは1976年の春だったから、この4月でまる40年になる。1976年がどんな年だったのかネットで調べたら“モントリオール五輪”と一緒に“この年にヤマト運輸の宅急便はじまる”というのが出てきた。大阪大学の原子力工学科に入学したのは、その7年前の1969年だった。この報告のタイトルの47年とは、その時から数えた年数である。図1に、日本の原発の総電気出力と数の推移を、私に関連するイベントとともに示した。

原子力発電が日本で本格的に始まったのは、1970年3月に運転を開始した敦賀1号(BWR、36万kW)である。敦賀原発からの電気が、大阪万博の開催に合わせて千里の万博会場に送られたというニュースを、阪大原子力工学科の学生として誇らしく感じたことを覚えている。以来このかた、原子力屋の端くれとして、日本の原発の“盛衰”を50年近く眺めて来たことになる。

日本の原子力開発の有り様に私が疑問をもち始めたのは東工大の大学院生時代である。図1から分かるように、当時、日本中で原発建設が進められていた。と同時に、ほとんど全ての原発予定地で強い反対運動が起きていた。反対運動を支援しているグループと一緒に現地へ行く機会があり、地元の人と交流する機会があった。建設に反対している人々から、『国や電力会社は、どんなことがあっても事故は起きません、原発ができたら地元におカネが入るし、仕事も増えると言っている。では何でそんなに結構なものを、都会の回りに作らず、伊方や柏崎といった田舎に作るのか』という問題提起を受けた。図1は、そうした問題提起や反対運動をカネと力で押しつぶしながら原発が増え続け、最後には福島原発事故に至ってしまった推移を示している。

東工大では、1年間のモラトリアムをもらって修士課程を3年で修了した。私が学生時代を過ごした7年間は、大学騒動やベトナム戦争反対運動など学生運動まっ盛りの時代だった。いわゆる活動家であったことはないが、若いなりに社会に向き合い、社会全体を客観化し、自分がどのような生き方を選択するのかが問われた時代だった。まずは“大手企業に就職して日本の中枢を支えている部分を眺めて見ょう”と思っていたが、折からの第1次石油ショックで求人が冷え込んでいたところに、知り合いから『京大原子炉で助手を公募しているので受けてみたら』と声がかかった。軽い気持ちで応募したら、筆記試験と面接があって、どういうわけか採用された。という次第で、“原子力開発の有り様に疑問を抱き、研究者を志していたわけでもなかった原子力工学の大学院生が、なりゆきで原子炉実験所の助手になってしまった” (という、のどかな時代だった)。

伊方原発裁判は、四国電力伊方原発の設置許可取消しを求めた日本で最初の原発裁判で、私が原子炉実験所に入所したとき、海老沢徹、小林圭二、瀬尾健、川野眞治、小出裕章の5人の助手が、原発安全性の技術的問題に関する原告住民側の助っ人として裁判に関わっていた。当然のごとく、私もグループに加わって裁判を手伝った。私にとって、伊方裁判を手伝い傍聴した経験は、原発の技術的問題をはじめ、原発がもっている社会的問題、さらには国の原発安全審査に関わっていた先生方の専門的レベル、そもそも裁判というものの社会的役割に至るまで、いろいろ勉強になった。

一方、原子炉実験所の助手になったものの、研究者としては、しばらくは“暗中模索”の状態だった。 転機となったのは、1979年に起きたスリーマイル島(TMI)原発事故だった。TMI事故を経験するまで、日本の原発安全性の議論は、いわば机の上での議論だったが、TMI事故は、原発というものが破局的な事故に至る可能性を抱えていることを事実で示した。TMI事故を調べ、勉強する中で、原発に対する私のスタンスは“その安全性に疑問をもつ”から“もともと危険なもので、下手をしたら大災害がホントに起きてしまう”というものに変わった。TMI事故による放射能放出量評価の仕事を瀬尾さん(1994年逝去)と一緒にやった経験が、研究者としてのその後の私のベースになったと思っている。

TMI事故を経験してからは、『原子力をエネルギー源として利用するかどうかは社会的判断であり、原子力の専門家が決めるべきことではない。その判断に際しての専門家の役割は、原子力エネルギーがもっているメリット、デメリットを一般の人が理解できるように提示することにある』という考え方が明確になった。研究者としては、原子力が抱えているマイナス面を明らかにすることを自分の研究テーマにすることにした。

私たちのグループ(原子力安全研究グループ)が、原子力が抱える様々な問題について一般の人と一緒に議論する場として“原子力安全問題ゼミ”の第1回を開いたのは1980年6月のことだった。以来、毎年数回の開催を継続し、小出さんの定年に合わせた昨年2月のゼミで第111回に至っている。ゼミのタイトルや中身については、下記を参照されたい。
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/zemi.html

広島・長崎:

広島・長崎の原爆放射線量問題の勉強を始めたのは、1980年頃だった。広島・長崎の被爆生存者追跡調査のために当時使われていたT65D線量が間違っているという記事がScienceに出たのをきっかけに、原子力資料情報室の高木仁三郎さん(2000年逝去)の提案で勉強会を始めた。その会で、放射線輸送計算を私が担当することになり、いろいろな方の手ほどきを受け、ANISN、DOT、MORSEといった輸送計算コードを走らせ、新しい原爆放射線量DS86の検証計算を行った。

その後、原爆中性子によるEu152やC136の放射化量について、DS86に基づく計算値と測定値が合わないという問題が浮上し、広島大の葉佐井博巳さんから『今中さん、計算できるんなら手伝えや』と誘いがあり、広島グループとの共同研究が始まった。原爆線量問題は、葉佐井さんが日本側の責任者となって、日米合同WGとして問題解決にあたることになり、私も手伝うことになった。紆余曲折はあったものの、新たな原爆線量評価システムとしてDS02が2004年に採択された。

DS02で扱っているのは、原爆作裂時の初期放射線のみで、中性子誘導放射能や放射性降下物といった、いわゆる残留放射能については、初期放射線に比べて寄与が小さいということで、扱っていない。DS02以降は、残留放射能にともなう被曝量をそれなりに見積もっておく作業をやってきた。

チェルノブイリ原発事故:

“チェルノブイリ” という聞き慣れないコトバを耳にしたのは、1986年4月29日、当時の天皇誕生日の朝だった。その3日前にソ連の原発で重大事故が起きてスウェーデンでも放射能が検出された、というニュースだったと思う。事故の詳細は分からないものの、日本まで放射能が飛んでくるかも知れないということで、小出さんとモニタリングの準備をはじめた。我々がチェルノブイリからの放射能を熊取で検出したのは5月3日に降った雨の中のI131だった。5月5日のエアサンプリングでは1m3当り0.5BqのI131を検出した。

私たちのグループは、事故直後から瀬尾さんを中心に世界規模での放射能汚染評価を試みていたが、ソ連圏内のデータが全くといっていいほど出てこなかった。状況に変化が起きたのは事故から3年たった1989年春のことで、ゴルバチョフの民主化政策によってソ連共産党の独裁体制が崩れ始め、チェルノブイリ周辺の汚染地図がようやく公開された。ベラルーシ科学アカデミーの研究者と交流がはじまり、私がはじめてチェルノブイリへ出かけたのは、まだソ連時代の1990年8月だった。以来、“原発で最悪の事態が起きたらどのような被害が周辺にもたらされるか”という問題意識でチェルノブイリのことを調べて来た。20年以上にわたるチェルノブイリ通いをして、私が得た教訓は次の2点だった。

・原発で大事故がおきると周辺の人々が突然に家を追われ、村や町がなくなり地域社会が丸ごと消滅する

・原子力の専門家として私に解明できることは、事故被害全体のほんの一側面に過ぎず、解明できないことの方が圧倒的に大きい

福島原発事故:2011年3月までの私は、『日本でも54基の原発が運転されており、下手をしたらチェルノブイリのようなことが起きる可能性がある』と警告を発していればよかった。3月11日の地震・津波によって福島第1原発で全交流電源が失われ、翌12日の午後に1号機で爆発が発生した。その映像を繰り返し眺め、原子炉建屋天井は吹っ飛んだものの格納容器が破壊されていないのを確認して私はホッとした。14日には3号機建屋も爆発したが、“福島がチェルノブイリのようになってしまった”と私が確信したのは、3月15日午前11時の記者会見で当時の枝野官房長官が、“2号機の格納容器が壊れたもよう”と発表したときだった。実際、その日の午後、北西方向への風によって、浪江町、飯舘村、福島市の方へ流れたプルームが、雨や雪と重なって地表に大量に沈着し、“北西方向高汚染帯”が形成された。当時の状況から考えて、福島第1原発周辺では広範囲に汚染が生じているのは明らかだったが、どういうわけか汚染に関する情報が全くといっていいほど発表されなかった。私たちが飯舘村の調査に入ったのは、汚染が起きてから2週間後の3月28日だった。

南部の長泥地区で最大30μSv/hの線量率を測定した(土壌汚染核種濃度から逆算すると、3月15日夜は150~200μSv/h)。『3月15日の夜、白装束の男たちがやって来て測定して帰ったが値は教えてくれなかった』そうである。飯舘村が避難区域に指定されたのは4月22日だった。私たちが実施した“飯舘村初期被曝評価プロジェクト”の結果では、飯舘村民が避難するまでの平均外部被曝量は7mSvとなった。

全村避難が続く飯舘村では2017年春の避難解除に向けて大規模な除染が実施されている。しかし、すぐ村へ戻ろうという人はせいぜい2割である。福島での私のこれからの役割は、人々が放射能汚染に向き合うときに必要な知識を提供し、人々が判断するときの手伝いをすることだと思っている。

図2は、私が生まれた年(1950年)からの日本のエネルギー需要の変遷である。子ども時代は、テレビも電気冷蔵庫もなかったが、それなりにいい時代だった。1970年頃から日本はエネルギー使い過ぎの時代に入ったと思っている。『1億総活躍』で『GDP600兆円』を目指すより、みんながノンビリ暮らせる社会を私は目指したい。

図1.日本の原発の数(グラフの数字、JPDRともんじゅは含まない) と総電気出力、および報告者に関連する出来事.

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図2. 日本の1次エネルギー供給量の推移:1950~2012年.エネルギー・経済統計要覧2014より作成.

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海老沢ほか「米国スルーマイル島原発事故の教言」第14回(1980)
小出ほか「敦賀原発一般排水路の放射能測定」第16回(1982)
今中ほか「広島・長崎原爆線量再評価問題とその意味について」第17回(1983)
小出ほか「環境影響からみた中性子源施設の社会的問題」第18回(1984)
瀬尾ほか「チェルノブィル原発事故における放射能放出量と環境汚染」第21回(1987)
海老沢ほか「超高感度中性子モニターの開発と環境線量測定」第22回(1988)
今中ほか「チェルノブイリ原発事故による放射能汚染と最近の諸問題」第27回(1993)
小林ほか[もんじゅナトリウム漏洩・火災事故とその問題点」第32回(1998)
今中ほか「チェルノブイリ原発事故影響研究と被災者救援の現状に関する調査報告」第32回学術講演会(1998)
今中ほか「ベラルーシ、ウクライナ、ロシアにおけるチェルノブイリ原発事故研究の現状調査報告」第36回(2002)
小出ほか「インド、ジャドゥゴダ・ウラン鉱山周辺の放射能汚染」第38回(2004)
今中「広島・長崎原爆放射線量評価体系の変遷と未解決問題」第43回(2009)
今中ほか「広島原爆早期入市者の疾病記録と誘導放射能による被曝量の評価」 第46回(2012)
今中ほか「飯舘村での放射能汚染調査と初期被曝量評価」第48回(2014)

Forty-seven years with nucIear engineering: Hiroshima-Nagasaki,Chernobyl and FukushimaTetsuii lmanaka

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ちたりた注)DS02についての論文をみつけた

「DS02 原爆線量計算システムの概要とその検証計算」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/IPA/DS02/Final_pdf/Imanaka-1.pdf

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