2/11反骨の助教 原発は過ち  「地震ある国 なぜ」最終講義後も闘い続く 京大・今中さん来月退官【北陸中日新聞・東日本大震災5年】

dadajijiさんから新聞を送っていただいた。
写真は中日新聞プラス2016年2月11日社会面より。
PDF⇒新聞20160211今中助教324

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反骨の助教 原発は過ち

 「地震ある国 なぜ」最終講義後も闘い続く

  京大・今中さん来月退官

2016年02月11日【北陸中日新聞・東日本大震災5年】

大阪府熊取-くまとり-町にある京都大原子炉実験所で反原発の立場を取ってきた研究者集団「熊取六人衆」。最年少で最後の現職、今中哲二助教(六五)が三月に定年退職する。十日には、六人衆が一九八〇年から開く市民向け講座が百十二回で幕を閉じた。最終回のテーマは「福島原発事故から五年」。今中さんは「地震がある国にこれだけの原発を造った。その間違いを認めることもなく、なぜまた動かすのか」と、再稼働を急ぐ国や電力会社に疑問を投げ掛けた。 (大阪報道部・相坂穣)

imanaka_中日160211原子力安全問題ゼミで講演する京都大原子炉実験所の今中哲二助教=10日午後、大阪府熊取町の同実験所で

(写真:中日新聞プラスより)http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=340900&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113

今中さんは一九五〇年に広島市で生まれた。祖母は原爆の犠牲となり、母は被爆者だった。ただ、大学で原子力工学を専攻したのは「生い立ちは関係なく、高度経済成長期に最先端技術に思えたから」だった。

原発を疑問視するようになったのは大学院生の時。新潟県の柏崎刈羽原発の建設予定地で、住民から「国は『事故は起きない』という原発を、なぜ都会でなく田舎に造るのか」という声を聞いたことがきっかけだった。

大手企業の技術者を目指すことをやめ、七六年に実験所の助手になった。原子力の利点だけでなく問題点も見つめたかった。後に六人衆として行動を共にする五人に出会った。

七九年の米スリーマイル島の原発事故では、六人衆の一人、瀬尾健さんと放射能放出量を評価する仕事に取り組んだ。八六年のチェルノブイリ原発事故後には、現地に入り「事故が起きると、周辺の人々が家を追われ、村や町がなくなり、地域社会が消滅する」と実感した。

政府や電力会社、科学界の「原子力村」と相対したためか、一人も教授に昇進しなかった六人衆。その存在が注目されたのは、福島の事故後だった。八〇年六月から「原子力の問題を市民に説明する責任がある」と続けてきた市民講座の聴講者も急増した。

十日の講座には市民ら百五十人が詰め掛け、六人衆も九四年に亡くなった瀬尾さんを除く四人が見守った。

「私たちのゼミはきょうが最後。ただ、また福島のような事故が起きれば、やらないといけない」

今中さんはそんな言葉で切り出した。福島の事故発生から数日でメルトダウン(炉心溶融)という事態が起きたと推測していたことや、放射能汚染のデータがなかなか明らかにされずに住民の避難が遅れた福島県飯舘村での調査を回想。「今思えば、チェルノブイリは人ごとだったが、福島では同じ日本語で気持ちが通じ合えるおじいさんや子どもらが被災した。日本が放射能汚染に五十年、百年と向かい合う時代になった」と語った。

あと一カ月半で熊取を去ることになる。「今やっているような仕事を何らかの形で続けていく。福島にはかかわっていくし、私がまだ役に立つことはあると思う」。原子力村との闘いを終えるつもりはない。

熊取六人衆 京都大原子炉実験所で、原発に批判的な調査や講演活動を続けてきた海老沢徹、小林圭二、瀬尾健、川野真治、小出裕章、今中哲二氏の研究者グループ。実験所がある熊取町の地名にちなみ「熊取六人衆(六人組)」などと呼ばれる。1970年代から四国電力伊方原発の設置許可取り消し訴訟をはじめ各地の反原発裁判で、原告住民側を専門家の立場から支援し、福島の事故前から原発の危険性を指摘してきた。

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