7/12護憲のルーツは福島に 良心的兵役拒否者・矢部喜好牧師の系譜【東京新聞・ふくしま便り】/矢部喜好牧師について【日本キリスト教団大津教会】

滋賀県にこんな素晴らしい牧師さまがおられたなんて知らなかった!

矢部喜好牧師について  【日本キリスト教団大津教会】

文章中どうしても地名が判別できない所があるので頭をひねってしまった。
「栗太郡”下回上村”」は”下田上村”と思われる。

3年前(2013年2月3日)この教会で小出さんの集会が開かれたのも何かのご縁があったかもしれない。
阿修羅に信者さんの投稿があった。

日本キリスト教団 大津教会 第30回社会セミナー「原子力と命の在り様」(講師・小出裕章
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護憲のルーツは福島に 良心的兵役拒否者・矢部喜好牧師の系譜

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/fukushima_report/list/CK2016071202000177.html
2016年7月12日【東京新聞・ふくしま便り】

「平和のための戦争展」で日本初の良心的兵役拒否者の矢部牧師を紹介する山崎四朗さん(右)と上野修一さん=福島県喜多方市で
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参院選で、自民党などの改憲勢力が改憲の国会発議に必要な議席を獲得し、安倍政権がこの勢いで改憲に進む可能性が出てきた。だからこそ今、日本国憲法の価値を再認識しておきたい。平和の礎を簡単に捨てることがないように。

日本国憲法の実質的起草者である憲法学者、鈴木安蔵(やすぞう)氏が福島県南相馬市出身であることは以前、本欄で書いた。実はもうひとり、平和憲法に関わる巨人を福島県は輩出している。日本人初の良心的兵役拒否者といわれる矢部喜好(きよし)氏である。

参院選の最中の今月六日、喜多方市の厚生会館で「平和のための戦争展」が開催されていた。展示パネルの一角を占めていたのが矢部喜好氏の写真や年譜など。「これほど激しく戦争を拒絶した人が喜多方にいた。その事実が地元で知られるようになったのは、ここ数年の話なんです」と、いずれも元高校教師で「戦争展」を毎年開催している山崎四朗さん(76)、上野修一さん(77)が説明してくれた。

矢部氏は一八八四(明治十七)年に喜多方市の山あいの蓬莱(ほうらい)で生まれた。父は材木商。会津中学に在学中、キリスト教に入信して伝道師を志す。当時は日露戦争前夜で国民の多くが戦争熱に浮かされていた。彼は仲間と「戦争は神の教えに背く罪悪である」とビラを配り、連夜、会津若松の町を練り歩いた。

学校や家族は「学業に専念するように」と説得するが応じず、一九〇三年、雪の峠道を徒歩で越えて上京。東京で伝道者としての生活を始める。

〇四年に日露戦争が勃発すると、補充兵として召集される。だが断固として入隊を拒否し、裁判に付される。当時の新聞は、わずか十九歳八カ月の少年が「神は人を殺さず、戦争は人を殺すなり、これは人が作りたる法律によりて負う義務なる故に、吾(わ)れは決して応ずる能(あた)わず」と主張したと伝えている。

法廷には「国賊」「殴れ」と罵声が飛んだという。矢部氏は有罪となり、収監された後、看護兵として入隊。銃を持たぬまま終戦を迎える。これが日本初の良心的兵役拒否である。

良心的兵役拒否はキリスト教の信仰に基づく反戦行動として米国で始まった。南北戦争中の一八六三年に、戦闘参加を免除する代わりに、金銭を支払うか、戦闘以外の仕事に従事できる法律ができたという。

「最初の良心的兵役拒否-矢部喜好平和文集」の著作がある鈴木範久立教大名誉教授(81)によると、矢部少年は、良心的兵役拒否を意識して行動したのではなかったろうという。ただ教義を信じ、突き進んだ末に、たどりついた行動だったのだ。

そんな信仰者が、なぜ平和憲法と関わりをもつというのか。

矢部氏は日露戦争終結後、米国へ向かった。シカゴ大学などで神学の学位を得て十年後に帰国。滋賀県膳所町(ぜぜちょう)(現大津市)に教会を設立し、以後二十年間、伝道活動に励み、五十一歳で病没した。

膳所時代には、雑誌に寄稿し、こんな言葉を残している。

「永遠の平和を獲得するための戦争などとは痴人の夢」「剣をとる者は剣にて亡ぶべし」

この教会で中学時代に学び、矢部牧師を師と仰いだのが、戦後の護憲運動の中心を担った田畑忍元同志社大学長だった。

田畑氏が設立した憲法研究会には鈴木安蔵氏も参加。さらに田畑氏の講演「平和主義と憲法九条」に感動し、法学研究の道に入ったのが、土井たか子元日本社会党委員長だった。

福島県九条の会代表でもある吉原泰助元福島大学長(83)は「矢部喜好は護憲のルーツといってもいい。氏の思想の源流には、福島に根付いた自由民権運動の伝統もあった。権力に抵抗し、民衆の側に立った先駆者の志を大切にしたい」と話している。 (福島特別支局長・坂本充孝)

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[日本キリスト教団大津教会]

矢部喜好牧師について

矢部喜好牧師について

 

▼ 非戦論者、矢部喜好

矢部牧師について『岩波キリスト教事典』(2002年)には次のようにある。

「矢部喜好(1884-1935)、牧師で非戦論者。福島県生まれ。会津中学時代にキリスト教の末世福音教会に入信。退学して伝道中、日露戦争で召集を受けるが、人を殺す戦争には参加できないこと、平和は戦争による方法ではもたらされないことを理由に拒否。逮捕され禁固刑に付された。日本最初の良心的兵役拒否の主張者とみなされる。アメリカ留学後、同胞教会に転じ、帰国後は同派の教師として、滋賀県の膳所同胞教会の設立を始め、琵琶湖周辺で伝道。また21年にはフィリピンのマニラに日本人教会を設立した。非戦・平和論者として一生をつらぬくとともに、児童の宗教教育のため日曜学校の普及につくした」。

以上の記述でほぼ尽きているのであるが、大津同胞教会と矢部牧師を中心に記録しておく。

▼ 湖畔伝道への召命

オハイオ州ディトン市、1907年、矢部はある銀行家のハウスボーイをしながら勉学していたが、週給4ドルでは古本しか買えず、その古本に潜んでいた病原菌に感染、猩紅熱にかかった。セント・エリザベス病院に入院、生死の境をさまよったが、約1か月後の12月中旬、まだ面会謝絶のある日、隣室からエドガー・ニップが話しかけた。「日本の琵琶湖畔に開拓伝道者として遣わされたモンロー・クリセリウス君が、君と同じ猩紅熱にかかり大津で客死した」。

進むべき道に神の示しを求めていた矢部は、ここに琵琶湖畔の伝道に一生を捧げる決心をし、次のように祈った。「もし全く癒されて祖国教化のために帰朝する日あらば、願わくば彼がなさんとして果たし得ざりし琵琶湖畔の聖なる御事業に余の全生涯をば用いてください」。ニップは1900年ベネ夫人とともに来日、京都に住み同志社で教鞭をとりつつ京都同胞教会の建設などに力を尽くしたが、この時はアメリカに帰国、同胞教会外国伝道部教育部長の地位にあった。この出会いが、矢部をして同胞教会に転じさせることとなる。

1909年オハイオ州オッターバイン大学に入学。卒業後シカゴ大学神学部に入学、1914年卒業。高校から足掛け10年の留学生活を終え、湖畔伝道の幻を得て帰国の途についた。再び日本で働くとの決意のもと、ニップ夫妻が矢部に同道していた。

 

▼ 開拓伝道

帰国後、2か月余りの原宿同胞教会での準備と山田春(しゅん)との結婚。そして1915年6月、クリセリウスの遺志をついで、琵琶湖畔を目指して西下、ひとまずニップの京都宅に落ちついた。2人で実地調査などを行い、膳所を選んだ。住所兼伝道所として西村金吾宅を借り受け、7月4日福音伝道の第一声をあげた。矢部31歳の誕生日であった。

1年後、最初の洗礼式が行われたが、受洗者は日曜学校の生徒の中からであった。この時、膳所同胞教会が発足した。日曜学校には毎週100人近くが出席し、また幼稚園は申込者40人に対して借家では対応しきれず、午前午後の2部制で行なった。これらの不便のため会堂建築を志したが、たまたま売りに出た寿座という芝居小屋を買い、これを改造して献堂した。1918年3月のことであり、伝道を開始して満3年にはなっていなかった。

この間の苦闘については、残念ながら全て省略する。ただ、矢部が基本に据えたのが日曜学校であったことは記憶したい。当時町の人々はキリスト教に全く関心がないか危険視した。しかし子ども達は楽しんで日曜学校に集まった。まだ珍しかったオルガンや春夫人の歌声、紙芝居、幻灯、聖書の物語などは子ども達に大きな魅力であった。

▼ 大津兼牧と活動の広がり

矢部はこの年の4月から、大津同胞教会を兼牧することになった。日曜は朝9時半から大津で礼拝をし、終わるやいなや膳所へ自転車を飛ばし、11時から膳所で礼拝をした。11時では遅すぎるという意見があったのか、膳所の礼拝は夏も冬も早朝5時半から聞かれていた時期もある。日曜礼拝のほか土曜と日曜には夜の集会、水曜木曜は祈祷会と何もかも2回ずつあり、毎火曜には大津の会堂建築のための早天祈祷会があ った。愛光幼稚園、湖南文化学校の開設、更に会堂建築のための募金活動もあった。

このように大津教会は膳所教会に随分と迷惑をかけた。大津と膳所の聞を自転車を駆って1日に何回も往復した。草津、瀬田、田上周辺へも自転車であった。また、神学生もくたくたになってしまい、同志社の先生方はその健康を随分心配したという証言もある。

記録によれば、矢部の手によって洗礼を受けた者は膳所211人、大津106人である。その矢部の元から牧会献身者、神学者が輩出した。矢部の祈りの一つに「我が伝道の生涯において、どうか30人の伝道者を起こさしめ給え」という願いがあったが、その願いは教育者なども含めると、半ばを越えている。

湖畔伝道開始後20年、直接矢部の手によってなった教会は膳所、栗南(当時の栗太郡下回上村)の2教会、新築はこの2教会のほか大津、草津と粟津会館(伝道所兼工場労働者対象の施設)、幼稚園は聖愛、愛光、信愛、瀬田昭愛、馬場同胞の5つと粟津保育園、湖南文化学校(大津と膳所)などが出来上がっていた。

矢部は宗教教育(日曜学校とその教師養成)、農村伝道(農繁期の託児所の設置などを含む)に特にカをそそぎ、さらに刑務所伝道にも手を広げた。余談だが、刑務所を出所した人が大津の会堂守りをしたこともある(大津教会の管理舎は1972年まで存在した)。超人的ともいえるその活動には、ただただ驚くばかりであり、それを導いた神の力と、矢部の信仰と情熱を実感させられる。

兼牧は大津に中村利雄が赴任する33年(昭和8年)まで15年間続いた。矢部の伝道生活の4分の3である。

 

▼ 祈りの人

「幻なき民は滅ぶ」というのが矢部の口癖であったといわれるが、矢部は祈りの人であった。毎朝愛犬イチロウを連れて裏山に登り、教会員一人ひとりの名をあげて祈った。夜は夜で長い祈りの時間があったという。思うに、朝は兄島姉妹のための祈りであり、夜は自ら携わった多くの伝道・運動のためだったようだ。伝道集会、路傍伝道、農村伝道、日曜学校運動、平和運動、労働運動、廃娼運動、禁酒運動、受刑者・出所者を支える活動、湖南伝道機関紙「湖光」の編集・発行、などなど。

また、よくハガキを書く人だった。会員の一人ひとりに心のこもったハガキを出すのは勿論、行きつけの店、散髪屋さんなどにも、安否を尋ねたり近況を知らせたりして、喜ばれたり恐縮されたりしたという。教会や町の人々のことが、どんなに忙しくても頭から離れなかったのだろう。

▼ 永眠

大津との兼牧を解かれて2年後の35年(昭和10年)、8月4日の膳所教会での礼拝が最後の説教になった。17日京都府立医大病院に入院。病床にあっても、肌身離さず‘持っていた教会員のカードを繰りながら、一人ひとりの名をあげて祈り続けた。26日永眠。

その日13時すぎ、突然目を開いて「見える見える天国が」「イエス様が見える」。それから最後に「バンザーイ」と叫んだ。時に51歳。死因は胃潰瘍と余病の併発による。墓は、矢部が毎朝の祈りの場所としていた所で、彼の死が契機となってできた湖南キリスト者共同墓地の中、大津教会と膳所教会の霊安塔の丁度真ん中にある。ここに春夫人、愛犬イチロウと共に眠っている。花商岩の十字架には杉山元治郎の筆になる「己が十字架を負ひて我に従へ」。

人と人をつなげていくその歩みは、いまを生きる私達にとって大きな課題であり、また励ましでもある。

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