8/22「改憲派 圧倒する意見を」 病状で日本の行く末案じ/101歳、反骨のジャーナリスト むのたけじさん死去【東京新聞】

「改憲派 圧倒する意見を」

 病状で日本の行く末案じ

2016年8月22日【東京新聞朝刊・第二社会面】

新聞記者として戦意揚をあおる戦争報道に加担した責任を背負い続けたむのたけじさん。地域から社会に警鐘を鳴らし、ジャーナリズムのあり方を探り続けた。「憲法九条こそが人類に希望をもたらす」。百一歳で亡くなる直前まで、日本の行く末を案じ、反戦を訴えていた。=1面参照

むのたけじさん死去

むのたけじさんは、五月三日に都内で聞かれた憲法集会への出席後に肺炎をこじらせ、同九日から入院生活を送っていた。ほとんどベッドから出られなかったが、病床から日本の行く末を案じ続けていた。

七月十日に投開票された参院選。改憲勢力が三分の二の議席を得たと聞いたむのさんは、「えっ」と声を上げたという。さいたま市内で同居していた次男の大策さん(六三)は「若い世代は反戦を唱える人が多いと信じていた。安倍政権への支持が多いことが理解できなかったようだ」と語る。

病状で日本の行く末案じ

ただ、あきらめてはいなかった。大策さんに「残りの三分の一の人たちが改憲派を圧倒するような意見をつくらなければならない」と話したという。七月十五日に退院するも、寝たきりの日々。今月二十日の昼ごろから息が荒くなったり無呼吸になったりし、翌日未明に息を引き取った。

「二・二六事件」のあった一九三六年、東京外大の前身の東京外国語学校を卒業したむのさんは卒業証書を受け取れなかった。昨年十月、同大から卒業証書が贈られ「個人の運命が軍国主義の波にもてあそばれる時代だった」と語った。

人類がどうやって争いがなく暮らしていけるか、が最後まで向き合い続けたテーマだった。「最後に本にまとめたい」と願っていたが、かなわなかった。

「たいまつ」創刊

  地方目線 鋭い警鐘

むのたけじさんは、秋田県横手市に拠点を構え、週刊新聞「たいまつ」を創刊するなど、戦争や憲法など多分野にわたる評論を発信し続けた。地方から社会に警鐘を鳴らす鋭い視点は百歳を超えても健在だっただけに関係者からは惜しむ声が相次いだ。

あきた文学資料館名誉館長で、むのさんと親交があった北条常久さん(七七)は「戦争の足音が再び聞こえる中で、やり残したことがあるという思いだろう」と惜しんだ。

「たいまつ」を保存する横手市立図書館の山下美喜子副主査(四一)は「横手の宝。地方から発信を続ける気概のある人だった」と振り返った。

 「驚くべき精神力」 鎌田慧さん

むのたけじさんの追悼会開催を九月に検討しているルポライターの鎌田慧さんは「五月に都内で開いた集会で、百一歳にもかかわらず車いすで参加し、憲法九条、平和の大切さを大きな声で熱心に訴えていた。驚くべき精神力の持ち主だったと思う。一方で、新聞記者として戦争取材に関わった自責の念から故郷で新聞を発刊し、地域で反戦を訴えながら、民主主義を実践していく姿勢を貫いてきたことは大きな意義がある。最後までジャーナリズムのあるべき姿を探ってきた人だった」と話した。

 『憲法9条こそが人類に希望をもたらす』

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 むのたけじさん最後の演説要旨
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むのたけじさんは今年五月三日、東京臨海広域防災公園(東京都江東区)で開かれた憲法集会に参加し、 車いすに乗って拳を振り上げながら憲法九条の大切さを訴えた。これが公の場での最後の姿となった。当日の演説要旨は以下の通り。

私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。

ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十一年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。

国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。

(写真)munotakejisan
卒業証書を手渡され、笑顔で掲げる ジャーナリストむのたけじさん=2015年10月31日、東京都府中市で

亡くなったむのたけじさんの平和への思いについて語る次男の大策さん=21日、さいたま市内で

 

 

101歳、反骨のジャーナリスト むのたけじさん死去

2016年8月22日 07時00分【東京新聞・社会】第一面
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016082290070013.html

アジア・太平洋戦争で大本営発表をそのまま報道した責任に向き合って敗戦を機に朝日新聞社を辞め、戦後は反戦平和を訴え続けた反骨のジャーナリストむのたけじ(本名武野武治)さんが二十一日午前零時二十分、老衰のため死去した。百一歳。秋田県出身。葬儀・告別式は近親者のみで営む予定。しのぶ会の開催が検討されている。

一九三六年に東京外国語学校(現・東京外大)卒業後、報知新聞、朝日新聞の社会部記者として活躍。四二年にインドネシア上陸作戦に従軍。終戦日の四五年八月十五日に退社した。

四八年二月、故郷でタブロイド判二ページの週刊新聞「たいまつ」を創刊。同紙は米国占領下の検閲に屈せず、教育や農業問題を中心に社会の矛盾を掘り下げた。七八年一月の七百八十号で休刊した。

近年は安全保障関連法や特定秘密保護法の廃止を訴えていた。

◆戦時報道省み反戦平和訴え

反戦平和を願うジャーナリストはどんな時も渾身(こんしん)の力を込めて語り続けた。「今が人生のてっぺん」。戦後還暦を迎えた二〇〇五年、社会部の企画取材のために秋田県横手市のご自宅を訪ねた時、むのさんは九十歳を超えて講演に執筆に多忙だった。

米国が始めたイラク戦争に日本が自衛隊を派遣し、改憲の動きも活発になっていた。一九四五年の敗戦の日、「戦争の本当の姿を伝えられなかった新聞人としての戦争責任を取る」と、朝日新聞を退社したむのさんは「再び戦争に向かおうとしている」ことに黙っていられなかったのだ。

むのさんを戦争体験の語り手として二〇〇六年夏、企画の一環としての対談が実現した。お相手はむのさんには孫世代に当たる、作家雨宮処凛(かりん)さん。昼食を挟んで六時間以上語りあった。むのさんは人々が惰性に流されて体制に従い、戦争に巻き込まれていった怖さを語った。

「戦争を始めたのは陸軍でも、それを止められなかった、許した国民にも責任はある」と。社会の公器である新聞は統制対象になり自由な言論が許されなくなっていくが、「統制よりも怖いのは自主規制。家族や周りが怖い」と強調した。

「風化していく戦争体験をどうしたら受け継げるのか」という問いには「戦争は経験したから分かるというものではない。戦争が重大な問題だと思ったら、若い人は自分で勉強してほしい」と励ました。

一九四八年に郷里で「たいまつ」を創刊。一度は捨てたペンを再び握らせた原動力は、その前年の連合国軍総司令部(GHQ)が出した2・1ゼネスト中止命令への怒りだ。「民主主義を掲げた米国の占領政策はうそ」と、創刊号に書き付けたのは中国の作家魯迅の言葉。「沈黙よ! 沈黙よ! 沈黙の中に爆発しなければ、沈黙の中に滅亡するだけである」。憲法の精神が崩されようとしている今、死ぬまで敬愛する文学者の言葉を叫んでいたのではないか。

「どんな悪い平和でもいい戦争に勝る。平和は意識的な戦いの中でしかつかめない」と説いたむのさん。原点は、戦争中に三歳のまな娘を病気で亡くした経験にある。二度と子どもが犠牲になる世の中にしない。一人一人が変われば大きな力になる。

数々の名文句を残したむのさんが語った言葉がある。平和を願うなら、そのための記事を毎日書き続けることで、願いは「主義(イズム)」となり、「ジャーナル(日記)」は「ジャーナリズムになる」。書き続けなくてはならない。私たちはむのさんの思いを受け継ぐ。 (編集委員・佐藤直子)

(最後の演説要旨は上記参照)

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