3/8-10【中日新聞・<浜通りの片隅に>東日本大震災6年】(1) 安らぎの場・(2) 帰郷 ・(3) 心の壁

アースデイいわきin小牧山
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<浜通りの片隅に>東日本大震災6年 (1) 安らぎの場

(2017年3月8日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20170308131540405

障害児の混乱受け止め

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毛布をかぶり、お気に入りのCDのジャケットを見ながら、童謡を楽しむ小塚史歩さん(右)。「安らぎの時間」を菅野さんが支える=福島県相馬市のゆうゆうクラブで

福島県相馬市の沿岸部にある障害児の放課後支援事業所「ゆうゆうクラブ」。窓際のソファで、小塚史歩さん(18)=富岡養護学校高等部3年=は、頭から毛布をかぶり、CDプレーヤーから流れる童謡に合わせて、笑い声を上げていた。

知的障害を伴う自閉症。聴覚が過敏で、予期できない話し声などが苦手だ。毛布で物音を和らげながら音楽に浸るのが、お気に入りの時間。「ちぎり絵も好きなんですよ。本当に落ち着いてきました」と、同クラブ代表の菅野友美子さん(56)は目を細めた。

史歩さんにとって、震災後の日々は恐怖の連続だった。自宅は、福島第1原発から約25キロの同県南相馬市原町区。家屋の被害は軽かったが、原発事故後、一家は秋田県の父の実家へ自主避難した。しかし、地震の体験に加え生活環境が一変したことにおびえて精神的に不安定になり、2カ月弱で自宅へ戻った。

震災前に通っていた富岡養護学校は避難区域内で、生徒たちは県内の特別支援学校内の「分教室」へと散り散りになった。史歩さんは相馬養護学校内の分教室に通うようになったが、菅野さんら発達障害の子を育てた母親たちが震災の翌月から相馬市内のカルチャーセンターを借りて、ゆうゆうクラブの活動を始めていたことが幸いした。

「初めは、史歩ちゃんは来るときも帰るときも、固まって動かなくなったりして大変でした。ゆったりできる場を設け、環境を整えることで、だんだん安定していきました」と菅野さん。日本発達障害ネットワークの専門家たちも頻繁に訪れて協力。遊具類も続々と集まった。翌年、菅野さんたちはNPO法人を設立。被災した菅野さんの実家を修復してクラブの拠点にした。県の委託を受け、支援事業を広げている。

元保育士の菅野さんも、介護が必要な母がいる。夫は震災前に病気で亡くなり、知的障害を伴う自閉症の長男耕史さん(33)は県内の障害者施設に入所中。育児、看護、介護の大変な日々を乗り越えてきた経験が、若い親たちを支える情熱になっている。安らぎの場を得た史歩さんは高等部に通い続け、やがて卒業式を迎える。しかし、その後が決まっていない。

労働人口の減少が目立つ原発周辺地域では、人手不足が大きな課題。企業が“即戦力”にはなりにくい障害者を育てる力や授産施設の受け入れ力も落ちているという。「ふるさと再興」を掲げる地域に、若い障害者たちの居場所はまだ見えてこない。

史歩さんの母親(48)は「いくつかの事業所で実習を受けましたが、採用は見送られました。私が勤めを辞めて世話をしなくてはならないかも」と話す。

「浜通り」。この美しい名を持つ福島県沿岸部は、東日本大震災と福島第1原発事故で深い傷を受け、人口減など多くの課題にあえぐ。震災から6年。ここに暮らす生活弱者、支援者の姿を通じて、復興の現状を見つめる。(この連載は編集委員・安藤明夫が担当します)

 

<浜通りの片隅に>東日本大震災6年 (2) 帰郷

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20170310135816623
(2017年3月9日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】

移転重ねた障害者施設

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再建された施設で、入所者となごやかに交流する寺島利文さん(右)=福島県広野町で

昼下がり、日当たりのいいフロアで、40人の入所者が思い思いにくつろいでいた。30歳から72歳。てんかんの持病で転倒の恐れがあるため頭部保護帽をかぶっている人、車いすの人もいる。

昨年5月、福島県広野町の丘陵地に移転オープンした社会福祉法人友愛会の知的障害者施設・光洋愛成園。同法人は震災前、福島第一原発から15キロの同県富岡町内で同園など入所・通所の10施設を運営していた。しかし、震災や原発事故で施設はいずれも居住制限区域に。移転オープンは、5年にわたる避難生活を経てのこと。施設長の寺島利文さん(63)は「長い旅でした」と振り返った。

光洋愛生園

震災の翌朝、利用者66人、職員15人がマイクロバス2台とワゴン車5台に分乗した。最初の避難先は、同県郡山市近郊の三春町の野外活動施設。研修室の床に毛布を敷き、雑魚寝の生活が1カ月続いた。食べ物や医薬品は、同町の協力で確保でき、富岡町の自宅を片付けた職員たちも駆けつけた。だが、生活環境が一変し、睡眠のリズムを崩したり、不安定になったりする利用者も続出した。

別の移転先を探したが、大人数のため難航。ようやく見つかったのが、群馬県高崎市にある重度知的障害者総合施設・国立のぞみの園だった。1970年代にできた大規模施設で、スペースに余裕があった。

個々の生活空間も確保できた。グループでバスに乗って市内を散策したり、震災前にやっていた加工みそ造りや、スカーフなど布製品の桜染め作業も再開するなど、元の生活に近い日常が戻ってきた。同法人理事長の林久美子さんは「診療所をはじめ、いろんな設備が整っていて理想的な避難先でした。でも、永遠にいられる場所じゃない。1年が過ぎたころから、帰還のロードマップづくりを始めました」と振り返る。

津波の心配がなく放射線量も低い場所を探し、広野町を候補地に定めた。国や県とも交渉を重ねた末、全員個室の光洋愛成園やワークセンターなどの新施設が完成。3度目の引っ越しが、浜通りへの帰郷となった。

白を基調にした施設内を歩くと、入所者たちが次々に寺島さんに話し掛ける。ソファでリラックスしていたのは、福島県相馬市で放課後支援事業所「ゆうゆうクラブ」を運営する菅野友美子さん(58)の長男で入所する耕史さん(33)。障害児家庭を力づける菅野さんの活動も、わが子を任せられる施設があったから可能になった。

しかし、震災前にいた54人の職員のうち、現在もいるのは18人。新規募集を続け、何とか必要な人手は確保しているが、若い人が戻ってこない地域での求人は難しい。医療サービスも手薄だ。施設の近くにある精神科主体の高野病院に投薬などの協力をしてもらっているが、昨年末に起きた火災で老院長が亡くなり、一時は病院の存続が危ぶまれた。

「大変なことは多いけど、利用者さんたちの人生を豊かにするために、前を向いていきたい。あの大震災を乗り越えてきたんだから」と、寺島さんは力を込めた。

 

<浜通りの片隅に>東日本大震災6年 (3) 心の壁

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20170310140644221
(2017年3月10日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】

除染の合間交流 雪解け

除染作業宿舎

広大な駐車場を囲んで2階建てのプレハブが並ぶ。福島県南相馬市の丘陵地にあるゼネコンの除染作業員の合同宿舎。ピーク時は12棟があり、下請け会社の約1600人が暮らしていた。名古屋市北区の介護職員、三谷洋一さん(54)もその一人。2015年12月から今年1月末までの14カ月を、ここで過ごした。

4年前から愛知県内のボランティア仲間と仮設住宅の慰問などの被災地支援を続けてきた。そして「福島の復興のためには、人が敬遠することをやらなくては」と、勤めていた介護施設を辞め、ハローワークで除染の仕事を見つけた。

現地入りした初日のこと。地元の知り合いに、居酒屋で歓迎された。店内はすいているのに、周りのテーブルには「予約席」の札。除染作業員らしき客が入ってくると、おかみさんが「ごめんなさい。予約でいっぱいなの」と断る。除染作業員は“えたいの知れないよそ者”という地元の強烈な警戒感の表れだった。「地域のための仕事なのに」。ショックを受けた。

除染作業は森林、道路など班分けされており、三谷さんは宅地班。5〜7人で表面の土を剝ぎ取って袋に詰め、代わりの土を入れる。線量計を胸ポケットに差して毎日の被ばく量を積算していくが、問題にはならない量で防護服もなかった。もっと危険な作業もいとわないつもりだった三谷さんは、少し拍子抜けしたという。宿舎は折り畳みベッドがあるだけの3畳間で自炊禁止。シャワーを浴びて洗濯をして、スーパーで買った総菜などで夕食を済ませて寝るだけ。日給は、危険手当を含め1万1千円。

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除染作業の休憩中に近所の住民をマッサージして交流する三谷洋一さん(三谷さん提供)

そんな日々の中で、三谷さんは地域の人との交流を目標にした。作業の休み時間に、地元の農家の人たちと雑談し、マッサージもした。休日には地域の活動にも参加した。住民と親しくなると「県外に出かけた時、『福島ナンバーだ』と指をさされ、帰れと言われた」といった話を打ち明けてくれるようになった。

作業員が地域から排除されている一方、住民たちも「差別された体験」に傷ついていた。補償金をめぐる親族間のトラブルもたくさん聞いた。子育て世代が戻ってこず、高齢化が一気に進んだ地域の中に、さまざまな分断があった。

そんな地域を元気づけようと、病院の医師、学習塾の経営者らいろんな人たちが町おこしに頑張っていた。次第に親しくなると「作業員の方たちともっと交流したい」と言ってくれて、涙が出た。名古屋へ戻るときには送別会を開いてくれた。

今は、名古屋市内で知り合いの介護事業所の立ち上げを手伝う三谷さん。南相馬で接した他の除染作業員たちについて「保険証も持っていない人もいたけれど、出稼ぎの農家の人や地元の人も多かった。仕事を熱く語る雰囲気もありました」と語る。

福島での14カ月で実感したのは、偏見を排してつながっていくことの大切さだ。これからの支援活動に生かそうと思っている。

11日は、福島県いわき市から愛知県小牧市に移住した吉田拓也さん(47)らが同市の小牧山で開く「アースデイいわきin小牧山」のイベントに参加し、除染の体験を語る。

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