【3/10-3/14東京新聞・<茨城で生きる>】(上)「俺は死ぬまで福島人」 浪江町出身・鉾田市在住の菊地さん/(中)ここで「頑張るしかない」 いわき市出身・つくば市料理人の安藤さん/(下)「一人一人に合った柔軟な支援策必要」 茨大教授・原口弥生

6年前の地震と津波による福島第一原子力発電所の事故の翌年2月に茨城県小美玉市へyokoblueplanetさんに会いに行ったことがあるので、茨城県がとても気になる。
私が鼻血を出したのがその夜だった。どこかに「黒いハナクソ」というのを書いているはずだ。

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<茨城で生きる>(上)「俺は死ぬまで福島人」 浪江町出身・鉾田市在住の菊地さん

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201703/CK2017031002000172.html
【東京新聞・茨城】2017年3月10日

除染結果報告書の空間放射線量率の値を指し示す菊地さん=鉾田市で

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鉾田市に住む菊地孝さん(74)は、福島県浪江町川添地区にある自宅を取り壊す決心をした。「『帰らない』と決めないと、茨城で楽しく生きられない」と思うから。

東京電力福島第一原発から直線距離で十キロほど。昨年二月、浪江の自宅に東電の社員がやって来て、家財道具をフレコンバッグに詰めて回収していった。「お気に入りの赤い食器、子どもたちが好きだった本、全部捨ててしまいました」。妻(70)は、あふれる涙をぬぐった。

妻と二人の娘と四人ですごした木造二階建て。ベランダから山桜の巨木と海が見えた。

東日本大震災の日、菊地さんは仕事で宮城県丸森町にいた。自宅に戻る途中、福島県南相馬市で、がれきをのみ込んだ真っ黒な津波が迫ってくるのを見た。普段より三倍の時間をかけて自宅に帰り着いた。まだ電気が来ていたため、しばらく妻と家にとどまっていたが、福島第一原発で水素爆発が起こった。二日後の二〇一一年三月十四日朝、二組の娘夫婦が暮らす鉾田市に避難した。一三年七月に市内に一軒家を建てた。

当初は自宅が気になり、たびたび浪江に帰っていたが、変わり果てた故郷と自宅を目にすると胸が痛んだ。町に人の気配はなく、自宅はネズミが食い荒らし、床はふんで汚れていた。「壊れていく町や家を見たくない」。自然と故郷から足が遠のいた。しかし、帰郷への希望は絶えていなかった。

昨年一月、初めて自宅周辺で測定した空間放射線量率は、地表一センチの高さで毎時一八・七〇マイクロシーベルト。除染後、その年の暮れに測定してもらうと、同一・七二マイクロシーベルトと一割ほどまで低減していた。しかし不安な気持ちから、今年二月に再測定を依頼すると、同二・五一マイクロシーベルトまで上昇していた。地表一メートルで測っても国が除染の基準とする同〇・二三マイクロシーベルトも超えていた。今月三十一日には地区の避難指示が解除されるが、「とてもおっかなくて住めないよ」と菊地さんは力なく笑う。

町が策定した復興計画を眺めてみても、とても川添地区に人が戻ってくるとは思えなかった。半面、どうしても住民票を移す気になれない。愛する浪江町の人口減少の一端を担いたくないからだ。「浪江と縁を持ち続けたい。茨城で生きていくけど、俺は死ぬまで福島人だ」

浪江の自宅は年内にも取り壊すつもりだ。それでも菊地さんは「家族みんなで同じまちに住めて、被災者の中でも恵まれている」と話す。「家を壊す時、きっと泣いてしまうね」。ぽつり口にした。

茨城県内には、原発事故などで福島県から全国四十七都道府県で三番目に多い避難者が身を寄せている。見通しの立たない帰郷に、茨城で新たな生活の基盤づくりに乗り出そうとしている人たちがいる。県内避難者の葛藤から、あの日から六年の現実を考える。

(この企画は山下葉月が担当します)

 

<茨城で生きる>(中)ここで「頑張るしかない」 いわき市出身・つくば市料理人の安藤さん

2017年3月11日【東京新聞・茨城】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201703/CK2017031102000171.html

新天地で念願の自分の店を持った安藤さん=つくば市で

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「茨城で生きる」。料理人の安藤公一さん(46)が決断したのは、早かった。実家は、福島県いわき市のいわき湯本温泉にある小さな旅館。東日本大震災前には、宿泊客が温泉に漬かり、宴会で盛り上がっていたこの場所は、東京電力福島第一原発事故で、復興作業員らの前線基地に変わった。発生直後は、原発事故の収束に向かう作業員たちの宿にもなった。

毎週日曜、避難先のつくば市から車で、いわき市に向かい、両親が切り盛りする旅館を手伝う。玄関先には洗濯機と乾燥機がずらりと並び、観光客の姿は消えた。

「ここでの商売は駄目だと思った。子連れの観光客が遊びにくるのかと問われれば、厳しい」。和食店をつくば市内のビルにオープンした。

安藤さんは金沢市や東京都内の料亭で十三年間、腕を磨き、二〇〇一年、実家に戻った。典型的な湯治場の宿ではなく、「料理を売りに、女性客も呼べるおしゃれな旅館にしたい」とリニューアルの計画を練っていた。そんなときに原発事故が起こった。

郷里を離れ、妻、四人の子ども、祖母を連れて龍ケ崎市の親戚宅に身を寄せた。一一年六月に「教育環境が良い」という理由で、つくば市に移り住んだ。

約二年後に開店したつくばの店では、修業時代に収集したしゃれた食器で、女性客を中心に自慢の料理でもてなす。店名は旅館の屋号と同じ「わ可(か)ば」。旅館のリニューアル用に貯めてきた資金を、新天地での生活再建に充てた。

旬の食材を選んで腕を振るい、きれいに盛り付けた料理を、女性客たちがおしゃべりを楽しみながら口に運んでいる。「ようやくここまできました」。安藤さんの顔がほころぶ。店では同郷の男性二人も一緒に働いている。

福島県は、安藤さんら指定区域外からの避難者に対する、みなし仮設住宅の無償提供を三月末で打ち切る。家賃補助は二年をかけて段階的に減額される。いわきに通うために使う常磐道は、来年三月末まで通行料は無料だが、その後も制度が延長されるかは未定だ。

旅館「わ可ば」の名前を冠した店に、かつての宿泊客が訪ねてくれる一方で、新たな常連客も付いた。「確かに家計は苦しい。けれども、つくばで商売を頑張るしかありません」。ピンチをチャンスに変える。料理人は決意をにじませた。

(山下葉月)

 

<茨城で生きる>(下)「一人一人に合った柔軟な支援策必要」 茨大教授・原口弥生

2017年3月12日【東京新聞・茨城】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201703/CK2017031202000136.html

避難者の課題や現状について説明する茨城大の原口教授=水戸市で

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復興庁などによると、東京電力福島第一原発事故により、県内に避難している福島県民は二月十三日現在、三千七百八人に上る。東京都、埼玉県に次いで全国で三番目に多い。福島県避難者支援課の話では、茨城は風土や気候、方言が福島と似通っているため、住みやすいことや、隣接する故郷に帰りやすいということに加え、首都圏に近いというメリットもあるようだ。福島県内で人気のいわき市の住宅不足も相まって、茨城に住まいを求めるケースは多い。

茨城大人文学部の原口弥生教授(環境社会学)によると、県内の避難者の八割が避難指示区域からの強制避難者で、そのまま定住する傾向にあるという。原口教授が昨年三~五月に県内避難者を対象に、居住の実態や今後の暮らしの意向などについて聞いたアンケートでは、既に県内に家を購入したと回答したのは50・9%で、二〇一四年の前回調査から30ポイント以上増え、五割を超した。一方で民間借り上げ住宅(みなし仮設)の割合は24・1%と約二割減少し、県内で住宅確保が進んでいる傾向を示している。

こうした現状を受け、原口教授は、「東電の賠償金で家を建てた」など、避難者が地域社会で、いわれのないバッシングを受けることを懸念する。「避難者が失ったものの大きさに目を向けてほしい」と訴え、地域で避難者を受け入れる環境づくりの必要性を強調する。

一方で、県内避難者の二割を占める指定区域外からの避難者の中には、人生設計が立てられない人もいる。福島県は、指定区域外からの避難者に対するみなし仮設の無償提供を三月末で打ち切る。民間賃貸住宅に居住している世帯に対しては、二年間に限り家賃を一部補助するが、国家公務員宿舎は厳しい入居条件を設けた上で、家賃の全額負担を求めている。

いわき市から家族七人で避難し、つくば市内の国家公務員宿舎に身を寄せる主婦(64)は四月以降、年金を取り崩してでも、月二万五千円の家賃を払って住み続けるつもりだ。「家賃を払ってでも住み続けることができてホッとしているが、いつまでも居座るわけにはいかない」。部屋には荷ほどきしていない段ボールが積まれている。「避難者でなく、もはや難民です」と嘆く。

原口教授は「避難者の間で多様化が進み、一律の支援では限界にきている。避難者一人一人に合った柔軟な支援策が必要」と指摘する。

(この連載は山下葉月が担当しました)

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