毎日放送 映像’17(2017/5/29) 全村避難6年、福島・飯舘村と科学者の記録​、今中哲二先生の活動【永岡さん】/文字情報【Mediacrit】

「(飯舘村の)彼らは事故と闘っている」と今中さんは番組で仰られた。

六年前津村さんにはあの番組で、熊取の先生方に目を向けさせて頂いて
あれ以来、あたかも自分の中にある「放射能事故と闘う今中さん」という番組を見続けているような気がする。

要約された永岡さんのメール文の方が、文字の羅列のMediacritより優れている。
音声からの変換だから、画面表示の文字は反映していないのが困りもの。
なお、Mediacritで出て来る数値は線量計の数値で、単位はμシーベルトのこと。

久しぶりなので録画の仕方が思い出せなくて、昨夜はオンエアで番組を拝見。
3時間くらいしか寝ていないせいで今日はとても眠たい。夜遊びはできそうにない。
せっかく鈴木大介が近江八幡に来るのに!

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永岡です、毎日放送の映像’17、福島原発事故、飯舘村についての、今中哲二先生のことが取り上げられました。ディレクターは津村健夫さん(熊取6人組の番組を作られた方)です。

福島県飯舘村、2017年3月、田んぼを2,3段、畑も多数持つ農家さん、何もできない状態になったと語り、シートで放射能汚染された土が隠されて、廃棄処分までここに置き、原発事故で村は全員避難、一生懸命やって、これからの時に残念と村民は語り、これからどうして暮らしていいかわからない、息子さん娘さんの世代のことは分からないと語り、全員避難の村で、科学者が測定、リーダーは今中哲二先生、10時10分、1.4マイクロシーベルト、30km離れても高濃度の汚染があり、線量は落ちておらず、セシウム137の半減期は30年、戻るか、100年後に戻るか、国や東電は村民の判断をちゃんとさせる責任があると言われて、国は飯舘村の避難指示解除、1ミリシーベルトではなく、20ミリシーベルトで帰れと国は言い、避難指示解除で、人々は村に戻るのか、その時に科学者はどう発言するのか、全村避難から6年、放射能に奪われた村のことです。

2011/3/11の東日本大震災、福島原発事故、全電源喪失→メルトダウン→大量の放射性物質が外に出て、過酷事故は起きないという安全神話は崩れ去り、3/15に格納容器が破損して、漏れた放射性物質は北西に行き、30km離れた飯舘村に注がれて、雨もあり、放射性物質は色もにおいもなく、村の風景は事故前と変わらないものの、菅野村長は、農業ができるのか、事故直後、余震の続く中で全村避難。

大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所、今中先生はチェルノブイリ事故などを調査、福島原発事故は今中先生にショックで、事故直後、現地に測定に行きたいと事故後2週間で語り、放射線量を測る必要があり、チェルノブイリの放射線量があり、それと比較して事故の規模を把握できると言われて、事故から2週間、放射線の極端に高い飯舘村に入られて、今中先生、放射線のことを、空間線量と土の汚れを測定、当時23~24マイクロシーベルト/時間、濃度を見ると、村の南部で20マイクロ→年60ミリシーベルト、法律の60倍であり、今中先生、涙を流すしかなく、被曝の現状に愕然、慰留、避難は行政が判断するしかなく、苦しい位置にあり、今中先生は行政、住民の判断できる材料を出したいと言われて、4月12日、国は飯舘村を計画的避難区域として、1か月以内に避難せよとして、飯舘村の住民は、今夜集まってどうするか決めると言われるのです。

住民は、子どもの甲状腺が気になり、小さい子を持つ親は心配、飯舘村から離れるのか、チェルノブイリでは4,5年後から子供の甲状腺がん、白血病が増えて、村では地区単位の集会が開かれて、職場も仕事も奪われた皆さん、放射能から身を守るには、避難するしかなく、不安の声が上がり、高齢者は避難できない、核の問題は村では対応できないと言いつつ、様々な葛藤を抱えて、6000人の村民が全員避難、原発事故→メルトダウン、情報は開示されず、事故の1週間後、市民向けの勉強会が京大原子炉実験所であり、今中先生は小出先生とともに、娘さんが東京にいて、いかに放射能汚染に立ち向かい、汚染に耐えていくか、という時代に入ったと語り、聴講者から放射能に耐えられないとの声で、今中先生はチェルノブイリ原発事故を引き合いに出されて、86年のチェルノブイリ原発事故、有無を言わさず強制避難、事故から土地が放射能汚染を知り途方にくれた人もいて、今中先生、原発事故が日本で起きたら、というテーマが福島原発事故で現実化して、20~30km住めなくなるものであり、飯舘村に2011年10月に、事故から半年後に今中先生入られて、調査チームは放射能の測定、本来稲穂のあるべき田んぼが雑草に覆われて、7.4マイクロシーベルト、セシウム134の半減期は2年、137の半減期は30年、空間放射線量は事故直後の1/3、田んぼで1/2になり、今中先生は自分に何ができるか、避難している村民に接して、村民は自分たちも屠畜されると、情けないと語り、家畜を失い、避難先でなぜこんな思いをするのかと、泣きながらの村民もあり、故郷を奪われた村民の声に耳を傾けて、子や孫を戻すつもりはない、20ミリシーベルトで子育てはできないと語る人もあり、今中先生、村民の感じていることを受け取り、村民たちは事故と闘っている、村に帰る、戻るとは何か、考えると言われました。

飯舘村では移染が行われて、そのためには肥沃な土地が破壊されて、フレコンバックに詰められた核廃物は処理のめどが立たず、飯舘村は1955年に合併で誕生、農業の村、原発から30km、交付金とは無縁の村であり、故郷に戻りたい住民の思いとは反して避難生活は長引き、先の見えない生活が続いたのです。

2016年3月、東日本大震災から3月、福島原発は廃炉作業も予想以上に難航、費用は2兆→9兆、国民にツケ、デブリ取り出しのめどは放射線量が高すぎでめどが立たない。

この年、チェルノブイリ原発事故30年、今中先生は3年ぶりにチェルノブイリを訪れて、ソ連は崩壊、原発はウクライナにあり、原発事故処理の作業をご覧になり、煙突のそばに石棺、コンクリートで覆われて、しかし今でも周囲に強い放射線、第2石棺、最初の石棺がダメになり、新たな石棺で覆うことになり、チェルノブイリ原発から4km、プリピャチ村、全員避難の村、飯舘村と同じであり、この町に5万人住んで、チェルノブイリ原発の従業員とその家族、事故翌日にはソ連政府がバス数百台で、数時間にて避難させて、観覧車は5/1のメーデーに運転開始の予定が、その5日前に事故で1日も稼働せず、これらをご覧になり、今中先生、30年、長いのか短いのか、人間の時間は放射能の時間に負けると言われます。

ウクライナの法律では、年間5ミリシーベルト以上は住んではダメ、1ミリシーベルト以上は住んでもいいが移住の権利のある地域になり、年間20ミリシーベルトで解除した日本とはエライ違いで、チェルノブイリ原発から130km、キエフにはプリピャチから避難された皆さんの集まりがあり、バラの町、事故による強制避難は3日と言われても、戻れず30年であり、プリピャチの皆さんは、同じ原発事故を経験したものとして他人事ではなく、福島第2に行かれた方もあり、信じられない、前向きな気持ちで生きてほしいとも語られて、原発事故で住み慣れた土地を失ったプリピャチの方に、原発を無くしてエネルギーをどうするか、ウクライナでは今でも原発4基、電力の半分をまかなっているのです。

日本では、2016年春に、飯舘村への避難指示を2017/3/31に解除を決定、一部の帰還困難区域区域を除いても、20ミリシーベルトなら住んでも問題ないとして、しかし日本の法律では一般人は1ミリシーベルトしか許容されず、飯舘村の皆さんはこれをどう受け止めるのか、避難指示解除の前に、今中先生は飯舘村の皆さんに測定結果を伝えて、村の南部、線量の高いところの皆さんに、セシウム134と137、半減期は134が2ねん、137は30年、移染して放射性物質はなくなるものの、放射性物質は山から来るので、山から来るセシウムはガンマ線を出し、測定結果は5ミリシーベルトになると今中先生は報告して、1ミリシーベルトに減るのに50年近くかかると今中先生は語り、いつになったら食べられるかとの質問に、100年で1/10になり、200年で1/100、300年で1/1000、300年かかる!(泣)、1kg当たり100ベクレル、村で25000ベクレルで、基準値には300年かかり、村民は今中先生の説明に感謝されて、戻る戻らないの参考にした、しかし戻る人は皆無であり、今中先生、これから50年100年、自分たちの生きていない時代のことを考えないといけないと言われました。

2017年3月31日、飯舘村の避難指示解除、式典が村の交流センターで行われて、受付には東電のスタッフも動員されており、菅野村長は待ちに待ったもの、復興のスタートと語り、とてつもなくうれしい、6年間の支援への感謝が語られました。

避難指示解除後に村に戻った人たちをMBSテレビは探して、長谷川光男さん(70歳)、比較的放射線量の低い北部に家があり、神様を頼んでお祓いをしてもらい、戻ってきて、自宅は最高だと語り、しかし息子さんは帰ってこず、奥さんと二人の生活で、長谷川さんは親の代から農業と林業をされて、避難の6年間は福島県伊達市で息子夫婦と暮らして、それはつらい避難生活、自分の家でないのはつらかったと語り、他に帰って来たのは6軒、53軒のうちであり、帰られたのは高齢者、若い人は帰ってこず、70~80代の人たちが帰っており、家の周りは国による移染が行われても、重機で自分で移染して、しかしフレコンバックの山は残り、息子夫婦は帰らず、フレコンバック撤去のめどはなく、飯舘村は気候が良く、農作物、野菜、花にも理想的な場所が損なわれたことを長谷川さん怒られて、しかし町は一変してしまい、子供たちの声はなく、避難指示解除から1か月、戻ってきたのは111世帯の259人、村の人口6000人の5%なのです。

村役場の中堅職員は、飯舘村は2018年に学校再開、飯館中学校を再開して、幼稚園、小学校も再開したいが、戻ってきた人は少なく、しかし子供のいない村には将来はなく、しかし、役場で働く人の9割は村には戻せず、外から通い、他方村の予算は震災前の5倍、も復興予算、しかしこれは町の駅などのハコモノに注がれています。

今中先生はチェルノブイリ、福島原発事故に向き合ってきた経験から積極的に発信されて、原発で大事故が起きたら、突然家を追われて、町屋村が丸ごと消滅する、これが実態で、今中先生は核の専門家として汚染を調べているが、「被災者にもたらされた災難は専門家が測定することはできない」ことを実感されました。

5月、いつものように飯舘村に春が来て、核災害からの復興、マイナス→ゼロへ、避難指示解除はスター ト地点には立っても、50年先、100年先、静かに咲く花を、その時の村の人たちは見ているのかと番組は締めくくられました。以上、映像‘17の内容でした。

 

映像’17「全村避難6年〜福島・飯舘村と科学者の記録」 2017.05.29[字]

http://o.x0.com/m/501054
【Mediacrit】2017.05.29

(スタッフ)何枚あるんですか?田んぼは。
(長谷川さん)田んぼは…。
(スタッフ)何反?2町2〜3反はあるんだわな。
(スタッフ)2町3反。
おお〜。
2町2〜3反。
(長谷川さん)
あと畑はやっぱ2町8反ぐらいある。
(スタッフ)ああ〜。

(ナレーション)
シートで覆われているのは放射能に汚染された土
除染で削り取られた田んぼや畑の土です
廃棄処分されるまでという約束でここに置かれています
6年前の原発事故のあと国から出された避難指示を受け村の住民全員が避難しました
お墓参りのため避難中に一時帰宅した男性は諦めにも似た表情で話します

う〜ん…う〜ん。
それこそ…。
(長谷川さん)
(長谷川さん)ははっ。
(長谷川さん)いや

住民全員が避難し誰もいなくなったこの村で科学者たちが放射能の測定を続けています
リーダーは京都大学原子炉実験所の今中哲二さんです

(今中哲二さん)
・1.4と1.4。
1時23分。
・はいはい。

福島第一原発の周辺地域ではなく30キロ以上も離れた飯舘村が高濃度の放射能に汚染されたことに注目し事故の直後から継続的に村を訪れています

だから要するにこの状況というのはもう除染してもこれまで見てるように線量はだいたい半分にしか落ちないから。
それで半分落ちてそこからやっぱり半減期30年ということになるからまあ100年後に戻るか200年後に戻るかといろんなオプションを考えながら地元の人が判断するもんだと思う。
ほいでいつも言うように国や「東電」はその人たちの判断をちゃんと面倒見る責任があると。

あの原発事故から6年がたち国は飯舘村に出していた避難指示を解除することを決めました
一般人の年間被ばく線量の限度は1ミリシーベルト
しかし国は基準を大幅に緩め空間放射線量が年間20ミリシーベルトを下回ることを避難指示解除の要件としました
避難指示の解除を受けて人々は村に戻るのか戻らないのか

そのとき科学者はどんな役割を果たすべきなのか
全村避難から6年
放射能に奪われた村の記録です

2011年3月11日に起きた地震と津波により福島県にある「東京電力」福島第一原発はすべての電源を失いました
その結果原子炉の炉心が溶けるメルトダウン事故が起き大量の放射性物質が空気中に放出されました
この事故により日本の原発で過酷な事故は起きないという安全神話は崩れ去りました
震災から4日後の3月15日
原発の格納容器から大気中に漏れ出した放射性物質は風に乗り北西方向に向かいました
そして夜半から降りはじめた雨と雪と共に30キロ以上離れた飯舘村に降り注いだのです
放射性物質は目に見えず色もにおいもありません
小川はさらさらと流れ牛がのどかに草をはんでいる村の風景は事故前と変わりませんでした
しかし…
飯舘村に放射能が回ってきてると。
そういうなかで農業の村・飯舘村が農作物を植えたりしていいのかどうかと。
事故の直後まだ余震が続くなかで村役場は放射能というまったく未知なものへの対応を迫られました

大阪府の熊取町にある京都大学原子炉実験所です
実験所の教員・今中哲二さんは1986年にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故などをテーマに原子力開発に伴う問題点を研究してきました
その原発事故が日本の福島で起きたことは今中さんにとって大きなショックでした

僕はできたら来週現地へ測定に行こうと思います。
(スタッフ)福島第一原発に?そうです。
できるだけ近づいてせんと。
いま現在その事故が始まってから2週間の段階で…。
周辺の避難されてる村の放射線量がどれくらいであるかというのをきちんと測っとく必要があると。
まあ実際に入れるかどうか知りませんけども。
そうしますと私自身頭の中に…チェルノブイリのときの放射線量が頭にありますからそれと比較することによって…。
その事故の規模を僕ははっきりと示すことができるんではないかと。

事故の2週間余り後今中さんが向かったのは放射線量の値が極端に高いと報道されていた飯舘村でした

・ここから飯舘だそうです。
・2.9!?おお〜。
この峠で…峠のこっち側で雲が来てるときに雨が降ってどうもそういう説で説明できますから。
だからこれがこっちへどの程度まで広がってるのかを押さえましょう午前中に。
・そうですね。

初めて村に入った調査チームは全域で空間放射線量や土壌の汚染を調べました
23…。
・23。
・おお〜!24。

これは村内で測定した空間放射線量を濃度で色分けしたデータです
村の南部では1時間当たり20マイクロシーベルト以上の放射線量がありました
この被ばくを1日8時間1年間続けたとするとおよそ60ミリシーベルト
これは日本の法律に定められた一般人の年間被ばく限度1ミリシーベルトの60倍になります

僕は涙流すしかないです。
ここの今の現状がどうでどれくらい被ばくするだろうということは僕は言えますある程度自分の責任で。
ほいで移住するとか避難するとかというのはそれぞれの人の判断ですから僕からは言えません。
たぶん町長さんはそういう意味では…行政は何らかの判断をしなければいけないという非常に苦しい立場だとは思います。
ですから私たち専門家ができることはそういう行政なり普通の人々が判断できるための情報をきちんと出していくということだと思ってます。
そのために私は今ここに来てるつもりです。

原発事故から1か月後の4月11日
国は空間放射線量の積算が高いとして飯舘村を「計画的避難区域」に指定
1か月以内に避難するよう住民に促しました

(スタッフ)ここはあれですか?避難する場所になってますかね?
(スタッフ)あっそうですか。
・飯舘村。
(スタッフ)それは皆さん全員避難する…。
(スタッフ)いつからですか?
(スタッフ)えっ?今決めてんだ。
子どものあれですかね。
(スタッフ)ああ〜。
甲状腺?甲状腺。
うん。
(スタッフ)今子どもさんにはどういう影響が出るというふうに聞いてらっしゃいますか?う〜ん…いや今すぐではないだろうけどいつかはそういうの出てきたら困るなっていうのもやはりありますしその心配があるから違う…飯舘村から離れようかなっていう考えでいますね。

チェルノブイリ原発事故では4年あるいは5年後から周辺地域で子どもの甲状腺がんや白血病が増えたと報告されています
村では夜ごと地区単位での集会が行われ避難への対応が協議されました
全村避難ということになりますと皆さん方はまさに職場も仕事も生活も暮らしもゼロにしていかなければならないと。
こんなことがあっていいはずはない。
放射能から身を守るには住み慣れた村を出ていくしかないと言われた住民たち
思ってもみなかった事態に不安の声が相次ぎました
ということになります。
さまざまな藤を抱えたまま飯舘村は全村避難つまり6000人の村民全員がふるさとの村を離れることを決めたのです
原発のメルトダウン事故とそれによる放射能の大量放出
過酷な事故が起きてしまったあとなのに情報はほとんど伝えられませんでした

事故の1週間後に京大原子炉実験所で開かれた市民向けの勉強会で今中さんはこう話しました
何とも言えないんですが私の子どもが…例えば東京にいるんですけど娘が。
とにかく逃げずに頑張れと。
頑張ってほしい。
ほんでだから言ってるのはもう…。
(一同)はははっ。
これをね…。
これをね…。
思って。
ほんで

1986年に起きたソ連のチェルノブイリ原発事故
原子炉が暴走して爆発炎上
地球規模で放射能汚染が広がりました
あの事故では有無を言わさず強制避難させられた人たちもいれば事故後何年もたってから自分の住む町が放射能に汚染されていることを知らされ途方に暮れた人たちもいました
そうした最悪の事態が日本で起きたらどうなるか
そんな今中さんの研究テーマが福島第一原発事故で現実のものとなってしまいました

同じですよそれは。
周りにね…やっぱりチェルノブイリの迫力って言ったら変だけども原発が事故を起こしたら周り20キロ30キロにわたって人が住めなくなるよといっぺんにね。
そういう事態が生じてますからこれは基本的におんなじことが起きてるんだと思いますよ。

原発事故の半年後全村避難が行われた飯舘村に人影はありません

はい行きましょか。

今中さんらの調査チームは再び村を訪れ放射能の測定を行いました
季節は秋
本来なら稲穂が色づいているはずの田んぼは雑草に覆われていました

10時36分PDR1.7。
GMが2.0。
でNAIが1.3。
7.4。
7.4。
うん。
なんぼ取る?

村を汚染しているおもな放射性物質…
こうした特性から空間放射線量は3月に測ったときと比べて雨などで洗い流されやすい道路上では3分の1から4分の1程度に田んぼの上では2分の1程度に減っていることが確認されました

測定を続ける一方で今中さんは自分に何ができるのかと避難中の村民たちが集まるシンポジウムに参加しました

我々酪農家のための生活の支えになって家族と同じ牛が屠畜されるわけだ。
ほんとにこんな話がこの世にあっていいのかと思った。
情けねがった。
でもどうしようもねがった。
飯舘で…乳牛約60頭これが屠畜に出されました。
土地を借りて実際の種の数量は1反分くらいの作付けしかできませんでした。
粘土質でとてもとても野菜…かぼちゃとか何かを作るような土地ではなかったので

ふるさとを奪われた人々が絞り出す言葉に聞き入ります

でもやっぱり我々は村には帰りたい。
自分の生まれたふるさとだから。
でも私は子ども孫は戻すつもりはありません。
ゼロには絶対なんないんですから。
そんな20から下がったから戻ってもいいよなんて言われたって子どもとか孫が育つ…子づくり子育てができる環境じゃないんです。
やっぱりさ…やっぱり地元の人のね…。
ずれてたことできないからさ。

彼らが何考えて何を感じてるのか何が問題なのか。
そことずれたことやったら我々やってることの意味がないから。

(スタッフ)先生の心にも今日は響いた?
うんいろいろねゆっくり考えるけど。
やっぱり彼らはまあ闘ってる。
事故と闘ってる。
だと思う。

でも…。
帰る戻るって…村に戻るってどういうことなんだってさ。
考えちゃうな。

その後飯舘村では大規模な除染放射性物質を取り除く作業が始まりました
しかしそのためには各農家が代々作り上げてきた肥沃な土の層をすべて削り取らなくてはなりませんでした
フレコンバッグに詰め込まれた田んぼや畑の土
それらはもう放射性廃棄物として管理される対象なのです
飯舘村は今から62年前の1955年飯曽村と大舘村が合併して誕生しました
以来農業の村肉牛の村として歩んできました
福島第一原発からおよそ30キロ離れた山間部にあり原発の立地と引き換えにもらえる巨額の交付金などとは無縁の村でした
ふるさとの村に戻りたいという住民の思い
しかしその思いとは反対に避難生活は長引き先の見えない時間が過ぎていきました

黙とう。
2016年3月

東日本大震災から5年がたちました
事故を起こした福島第一原発は廃炉に向けた作業を進めています
しかし予想以上に難航し当初2兆円としていた費用は9兆円に跳ね上がりその費用負担は国民にのしかかっています
メルトダウンして溶け出た核燃料を取り出す作業は放射線量が高すぎるためめどが立っていません

チェルノブイリ原発事故から30年にあたるこの年2016年今中さんは3年ぶりにチェルノブイリを訪れました
事故のあとソ連は崩壊し原発はウクライナの領土内にあります
今中さんは若手の研究者たちを伴い原子力災害の後始末がどのように行われているかを研究するプロジェクトの一環としてやってきました

煙突の左側が石棺。
いわゆる石棺。
かまぼこが今もうだいぶ出来てる。
3年前は途中までしか出来てなかったけども。
あの工法が面白いんで…。

事故を起こした4号機は爆発によりあらわになった放射性物質を封じ込めるためコンクリートで覆われたことから石棺と呼ばれました
しかし今でも周囲に強い放射線を出しています
4号機の横で造られていたのは第二石棺と呼ばれる巨大なシェルターです
石棺の劣化が激しく放射線の更なる封じ込めが必要なためこのシェルターで建物全体を覆うことになりました
チェルノブイリ原発から4キロ
福島県の飯舘村のように事故で住民全員が避難し無人となっている町プリピャチがあります

プリピャチ入ってきてここは広場ね。
ほいでここが何だっけ?あそこはホテル。
その右は市役所。
でここは…。
(外国語)
(外国語)文化センター。
・文化センターと公民館かな。
あっちレストランか。

かつてこの町に住んでいた住民の数はおよそ5万人
大半がチェルノブイリ原発の従業員とその家族でした
事故の翌日にはソ連政府が住民を避難させることを決めバス1000数百台をチャーターしておよそ3時間で全住民の避難を終えたといいます
この観覧車は5月1日のメーデーに運転を始めるはずでした
しかしその5日前に原発事故が起こり結局一度も人を乗せることはありませんでした

(スタッフ)30年目のチェルノブイリまあ実際来てご覧になって…。

いちばん驚いたのは木が大きくなってる。
ほいで何て言うのかなゴーストタウン化がだいぶ進んだね。
(スタッフ)ああ〜。

それがいちばん今回の印象に残ってるけど。
(スタッフ)時の経過っていう意味ではどうですか?うん30年ねぇ。
長いのか短いのか。

(スタッフ)先生も30年研究してこられたっていうことですもんね。
だからチェルノブイリ起きたとき私35なんだもん。
はははっ。
すごい時間だよね。
今65だ。

(スタッフ)やっぱり人間の時間と放射能の時間と…。
それは負けるわ。
時間勝負したら負けるわ。

ウクライナの法律では年間の被ばく量が5ミリシーベルト以上になる地域を住んではいけない地域に1ミリシーベルト以上になる地域を住んでもよいが移住する権利が認められる地域としています
年間20ミリシーベルトを基準として避難指示を解除する日本とは大きく異なっています
チェルノブイリ原発からおよそ130キロに位置するウクライナの首都・キエフにはプリピャチから避難した住民たちで作る互助組織があります
原発事故前のプリピャチの映像です
あちこちにバラの花が植えられバラの町とも呼ばれていました
事故による強制的な避難は3日間だけと聞かされていました
しかし住民は二度と町に戻ることはなく30年がたったのです
原発事故で住み慣れたふるさとを奪われたプリピャチの住民たち
今原発についてどう思っているか聞くとこんな答えが返ってきました

ウクライナでは今も国内の4か所に原発があり国の発電量の半分を賄っているのです
2016年の6月…
まだ空間放射線量が高い一部の帰還困難区域を除き基準とした年間の線量20ミリシーベルトを下回った地域は人が住んでも問題はないとしたのです
しかし日本の法律で定められている一般人の追加被ばく線量の限度は年間で1ミリシーベルト
飯舘村の人々はこれをどう受け止めるのでしょう

はいはいどうも。
よっこいしょ。
あれれれ?お迎えで。
ははっ。

避難指示の解除を前に京大原子炉実験所の今中さんは村の人たちに放射線量の測定結果を説明し疑問に答えるため福島を訪れました

はいこんにちは。
あっどうもこんにちは。

この日集まったのは放射線量が高い村の南部にある蕨平という地区の住民たちです

いま現在ここもそうですけども飯舘村で残ってる放射線は基本的にセシウムです。
セシウムが2種類あって134というやつと137。
おんなじセシウムという物質なんですけども半減期がこれ違います。
134というのは半減期が2年。
ほいで137は半減期が30年です。
もちろん除染をすれば…あの田んぼをしますよね。
そこの放射性物質はなくなります。
ですからそこで作物を作ったりする分にはもうほとんど放射性物質はなくなりますけども放射線は山からひゅ〜ひゅ〜っと飛んできますからですから家の周りと田んぼをきれいにしたって山にあるセシウムというのが放射線を…ガンマ線というのを出しますよね。
それが空気中す〜っと抜けてきますから…。

測定結果によれば蕨平地区で1年間暮らすと被ばく量はおよそ5ミリシーベルトになると今中さんは説明します
放射線量が自然に下がって被ばくする量が年間1ミリシーベルトになるのにはまだ50年近くかかるとも話しました

それでイノハナ高いですね。
・あと500年。
(一同)はははっ。

まああの〜えっとぶっちゃけたところでいくとあのねねっ?で100年で10分の1
(一同)ははははっ。

いや申し訳ないですけど…。
そういうレベルだほんとに。

食品に含まれる放射能の基準値は1キログラム当たり100ベクレル以内とされています
この女性が言うように村で採った野生のキノコが2万5000ベクレルだったとすると基準値以下になるまでにはほぼ300年かかる計算になります

(スタッフ)今中さんの話聞かれて皆さんどんな思いを持たれた…。
正直言って放射線っていうのはあまり身近でなかったもんだから今もって無知な人もたぶんいると思うんでそういう意味では丁寧に詳しく教えてもらってほんとに勉強になったなっていう感じがします。

(スタッフ)避難指示解除されますが戻る戻らないの参考にはなったんでしょうか?それは参考には…。
まあ参考にさせていただきたいと思います。
蕨平の人なり飯舘村の人がこれからどうするかというのはやっぱり50年100年先をにらみながらすなわち我々がねもう生きてないときのことも考えながらどう対応するのかという話なんだろうと思います。

全村避難から6年
3月31日いよいよ避難指示が解除されるときが来ました
村に人は戻ってくるのでしょうか

3月31日この日午前0時をもって飯舘村に出されていた避難指示が解除されました
記念の式典が村の交流センターで行われます

おはようございます。

受付の周辺には「東京電力」のスタッフも動員されています

待ちに待った解除ということでありましてこれはあくまでもゴールではありません。
これから復興のスタートに立ったということであります。
ただ立ったというだけでもとてつもなくうれしいかぎりでありますしそのことはこれまたとてつもなくこの6年間の間多くの人たちに応援をいただいた…支援をしていただいたおかげだなとそのように思ってるとこであります。

私たちは避難指示が解除されたあと村に戻ってきた人を探しました
解除の翌日いち早く村に戻ってきた長谷川光男さんです
自宅は村の中では放射線量が比較的低い北部の前田という地区にあります

(スタッフ)いつこちらには戻ってこられたんですか?う〜んと
(スタッフ)昨日?うん。
1日に戻ってきてそしてまあそれこそ
(スタッフ)ああ〜。
(スタッフ)あっそうですか。
どうですか?実際戻ってきてこられて。
いやうん何言ってもやっぱり…。
まあ

長谷川さんは親の代から飯舘村で農業と林業に携わってきました
避難していた6年間は飯舘村の北に位置する福島県伊達市内で家を借り息子夫婦と暮らしていました

(スタッフ)どうでしょう。
前田地区で避難指示解除になって帰ってこられたお宅っていうのは何軒ぐらい?いや
(スタッフ)ああ〜。
全部で何軒あるうちの…。
53戸あるうち6軒でねぇかないま現在来てる人が。
(スタッフ)帰ってこられた方はどんな方々ですか?いややっぱりははっ。
(スタッフ)若い人は?じいちゃんばあちゃん…やっぱ

家の周りは国による除染が行われましたが少しでも放射線量を下げようと自分で重機を使って更に土を削りました
しかし一緒に住んでいた若い息子夫婦は村に戻らず避難先に残りました

(スタッフ)おうちの前にはね…。
(長谷川さん)ほんでそれこそまあ…

ようやく戻ったふるさとは以前の村と同じではありませんでした
この地に生まれ子を持ちやがて孫ができる
そんな人生そのものががらりと変わってしまいました

避難指示解除からひと月がたちました
村の調べによると村に戻ってきたのは…
村の人口およそ6000人の5%以下です

村役場の中堅職員はふるさとの将来を案じてこう話します
飯舘村は平成30年の4月に村内で学校を再開させるというふうにしています。
そのために今もともと飯舘中学校という所があったんですがそこの校舎を改修しましてもう幼稚園小学校中学校まああと保育園までですねすべてその1か所でやろうというふうにしております。
もともとの子どもたちの数から今戻って飯舘村の学校に通いたいという人の数は決して多くはないんですがそれでもやっぱり子どもがいない村ということですともう将来がありませんので。

しかしこう話す職員も含め役場で働く人の9割がまだ村には戻らずに村外から通っています
一方村の予算規模は震災前の5倍に膨れ上がりました
国は交付金などを投入して復興の後押しを進めているのですが今村で目立つのは県道沿いで建設が進む巨大な道の駅などいわゆるハコモノなのです

(拍手)

(※ちたりた注 2017年4月28日練馬文化センター「放射能汚染の時代をどう生きるか、子どもたちをどう守るか」)

今中さんは科学者としてチェルノブイリと福島2つの原子力災害と向き合ってきた経験から積極的に発言を続けています

私自身が学んだ教訓というのは結局原発で大事故が起きると周辺の人々が突然家を追われ町や村が丸ごと消滅するということでした。
これ先ほど村がなくなったという写真もありましたけどもまさにこれは実感してきました。
と同時に私は原子力の専門家として汚染や被ばくのことを調べてますけどもそういったというのは実に実感してます。

5月いつものように飯舘村にも春がやってきました
原子力災害からの復興はマイナスからゼロへ向かっての復興といわれます
避難指示が解除された今飯舘村はそのスタート地点には立ちました
50年先100年先の未来静かに咲きそろうこの花を村の人々は見ているのでしょうか

2017/05/29(月) 00:50〜01:50

MBS毎日放送
映像’17「全村避難6年〜福島・飯舘村と科学者の記録」[字]

原発事故から丸6年。飯館村で事故後から放射線量を測定し続けてきた科学者と、3月に避難指示が解除された村民の現状。村民と科学者、それぞれの目線から考える。

詳細情報
番組内容
福島県の北部にある飯舘村は人口約6千人、農業と肉牛で村おこしに励み、総面積の75%を山林が占める四季折々の風景が美しい村だった。が、2011年3月、原発事故で放出された大量の放射性物質が村に降下し、山林や田畑、住宅を汚染した。事故発生当初、村民には放射能汚染についての情報がほとんど知らされず、1か月以上経ってから、国は村を「計画的避難区域」に指定。全村避難させられ故郷を奪われることになった。
番組内容2
福島原発から30キロも離れた村は「原発からは何の恩恵も受けていないのに、放射能だけが落とされた」と、家の前の除染土が詰まったフレコンバッグの山を見つめる。
京大原子炉実験所の今中哲二さんは、この飯館村に事故発生当初から入り、放射能汚染の測定を続けてきた科学者だ。情報を正しく伝えることで、地元の人が先を見据え、放射能汚染といかに立ち向かうか考える材料になればと考える。
番組内容3
今年3月31日、原発事故の放射能汚染で全村避難となっていた福島県飯舘村で、避難指示が解除された。だが実際、避難指示の解除で村に戻ったのは、事故前の全人口の4%足らずで、ほとんどが高齢者だ。山林の除染は手つかずで、村内には高線量の“ホットスポット”が点在する。
原発事故で放射能に汚染された飯舘村が失ったものは一体何なのか。村民と科学者、それぞれの目線から考える。

出演者
【ナレーター】
石田敦子

公式HP
【番組HP】
http://www.mbs.jp/eizou/
【番組フェイスブック】
https://www.facebook.com/MBS.eizou

おことわり
番組の内容と放送時間は、変更になる場合があります。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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