6/9末永敏事「思想犯」にされた医師/治安維持法下の犠牲/痛恨の過去 学ばぬ政府【東京新聞・特報】

実はこの末永敏事さんのことが去年から気になっていた。長崎新聞の連載が本にならないのかなぁとか待っていた。
昨年末、おしどりマコ・ケン夫妻と同じ賞を受賞された長崎新聞の報道で、この末永敏事さんのことを知ったんだ。

 

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末永敏事「思想犯」にされた医師

拙者は反戦主義

  80年前 信念が罪に

   治安維持法下の犠牲 「普通の市民」一変

2017年6月9日【東京新聞・こちら特報部】

 

かつて、戦争に反対しただけで「思想犯」に仕立てられた人々がいる。戦前、最先端の研究をしていた長崎県出身の結核医、末永敏事(びんじ)もその一人。戦時下に敢然と「反戦主義者であること申し上げます」と通告し、その信念が罪に問われた。検挙された後の行方はようとして知れない。内心の自由を侵す恐れがある「共謀罪」法案の審議を国が急ぐ今、消えた医師の人生が問いかけるものは何か。 (佐藤大)

 

大詰めを迎えた共謀罪法案の審議に、長崎市の末永等さん(七五)は「いざとなれば一般人も対象となることは歴史からはっきりしている」と嘆息する。

病院事務を定年まで勤めた等さんは、三年ほど前から農業のかたわら、治安維持法下に消えた遠縁の結核医末永敏事の人生を掘り起こしている。「敏事も一般人だった。そして戦後七十年たった今も、まだ名誉回復の途上にある」

敏事は一八八七(明治二十)年に長崎県北有馬村(現南島原市)の医師の家系に生まれた。戸籍上は一九四五年八月に死亡したことになっている。だが、親族でも存在が語られることはほとんどなかったという。

等さんは「親族の家系図を作ったときに、消息が分からない人がいて、不思議に思っていた」と振り返る。二O一四年に親族の集まりがあり、あれこれ聞いてみると「戦争に反対して捕まった」「共産党の関係で獄死した」などと言う人がいた。しかし、亡くなった場所さえはっきりしない。ある人は横浜と言い、ある人は福岡と言う。「世間体もあり、おそらく親族の間でタブー視されていたからだと思う。調べてみなければ、と思ったんです」

弟の次利さん(七二)と手分げして消息をたどると、一九二七年の地元紙「大島原新聞」に、村の「誇り」として敏事を取り上げた記事が残っていた。敏事が無教会主義のキリスト教伝道者、内村鑑三の薫陶を受けたこと、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)を卒業後、米国に留学し、シカゴ大学やシンシナティ大学で研究していたことが書かれていた。

「共産党ではなく、クリスチャンだったと知りびっくりした」と等さん。そんなことすら伝えられていなかったのだ。

「治安維持法制犠牲者国家賠償要求同盟」に問い合わせると、思想事件を記録する当時の「特高月報」に敏事が登場していたことが判明する。三八年の特高月報に、国家総動員のための「職業能力申告」を求められた敏事が「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲-ここ-に拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と述べ、周囲に「今度の戦争は東洋平和の為であると言ふて居るが事実は侵略戦争である」などと語っていたことが記されていた。

自らの信条を隠し立てしない敏事の意志の強さに魅了され、ますます調査は熱を帯びた。

敏事は三九年に、これらの発言が「造言飛語」にあたるとして陸海軍刑法違反罪で起訴され、禁錮三月の刑に処せられていた。その後の足取りははっきりしなかったが、敏事の郷里の幼なじみで、東京で歯科医師となっていた井村兼治さん(故人)を四三年に敏事がぼろぼろの格好で訪ねていたことが、兼治さんの息子正治さん(故人)の手記で明らかになった。

痛恨の過去 学ばぬ政府

 拡大解釈の捜査横行「共謀罪」でも懸念

  「維持法は違法」法相発言に反発も

 

ここまで調べた等さんが「自分たちの調査には限界がある」と昨年一月に相談したのが、地元の長崎新開編集局長の森永玲さん(五二)だ。

森永さんは当初、よく事情がのみ込めず「本当に実在する人物なのか」と半信半疑だったという。だが、「とりあえずウラだけでも取ってみるか」と国会図書館の蔵書を検察すると、約十本の論文がヒットした。

その論文をすべて取り寄せ、結核予防会(東京)の島尾忠男元会長にあたったところ「当時最先端の研究だ」と驚かれた。短期間だが、敏事が郷里で診療所を開設していた様子を覚えている人も見つかった。生身の結核医が浮かび上がってくるような手応えを感じた。

さらに内村鑑三研究で名高い鈴木範久・立教大名誉教授は、敏事の名前を知っていた。結核医として活躍したことや思想犯として捕らえられたことは知らなかったが、内村門下として文献に名前が登場していた。長崎大付属図書館医学分館から、長崎医専時代の顔写真も見つかった。

敏事は青山学院の学生時代に内村と出会い、入信したとされている。森永さんは「非戦論を唱えた内村の先進的な考えに多くの若者が心酔したが、敏事もその一人だったのだろう」と推測。その信仰が、軍務を拒絶するという大胆な「宣言」につながっていたとみる。

森永さんは昨年六月から長崎新聞で敏事の生涯をたどる連載を開始。茨城県で開業していた当時の情報なども寄せられ、計七十八回の長期連載となった。

敏事を追い続けた森永さんには、共謀罪法案の国会審議が当時と重なってみえる。「一般人、普通の市民には及ばないというのは、政府もうそを言っているつもりはないんだと思う。でもそれは、ものすごく甘い。治安維持法も国会では『一般国民には関係ない』と説明されたが早晩、拡大解釈の捜査が横行した。それを誰も止められなくなったという痛恨の過去を、僕らは経験している」

だがこの間、治安維持法の轍-てつ-を踏むのではとの疑念に、政府はまともに答えていない。それどころか、金田勝年法相は二日の衆院法務委員会で、治安維持法犠牲者の名誉回復を求める共産党議員の質問に「治安維持法は当時適法に制定され、勾留・拘禁は適法で、刑の執行も違法があったとは認められない」と答弁。謝罪や実態調査すら不要との認識を示した。

この「適法」発言に反発は広がる一方だ。

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」によると、同法違反容疑で六万八千二百七十四人が送検され、六千五百五十人が起訴された。藤田広登中央常任理事は「当局により資料が焼却されたり、『アカ』と呼ばれて白眼視された本人や家族らの沈黙により、分かっていないことは多い。それを『適法』と言い募り、何の反省材料にもしないことが許されるのか」と憤る。

治安維持法体制下で思想監視が広がり、あらゆる法律を駆使して個人の主張も取り締まられた。藤田さんは「たった一人で信念を貫いた敏事も、思想監視の網を逃れられてはいない」。こうした犠牲も含めるとどれほどになるか把握できないという。

敏事が開院した郷里の診療所近くに、親族の墓地がある。その一角にある何の文字も刻まれていない墓石が、敏事の墓とされる。近しい親族は追われるように長崎を離れ、当時を知る親族はほとんどいない。等さんが「そこに埋められたらしい」との証言を得たのは最近のことだ。

等さんの情熱や長崎新聞の地道な報道を受け、昨夏から長崎市内の「岡まさはる記念長崎平和資料館」に敏事の足跡を追うミニコーナーが設けられている。戦後七十年を経て、敏事の再評価がようやく始まった。「でも、まだまだ分かっていないことばかり。いまだに死亡した時期や場所すら定かではない」と等さんは歯がみする。

そして、全国にはまだ発掘されていない無数の「敏事」がいる。

(((デスクメモ)))
先月十九日の会見で菅義偉官房長官は「世論調査ではテロ等準備罪の必要性を訴える方が多くなってきている」と述べたが、逆である。首相お薦めの新聞さえ、五月の調査では「賛成」が前月から5ポイント減。適当なことを言う前に、国会審議で「反対」が増えた現実を直視すべきだろう。(洋)2017・6・9

末永敏事のものとみられる「墓」を見つめる末永等さん=長崎県南島原市で

(上)歴史に埋もれていた末永敏事の事件を錨り起こした長崎新聞編集局長の森永玲さん=長崎市で
(下)8日、参院法務委で答弁する金田法相

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