<特報50年>伝え続けた「炉心溶融」 「レベル7」風化する危機感/脱原発のうねり 確かに 過酷事故「いずれまた起きる」【東京新聞・こちら特報部】

<特報50年>

伝え続けた「炉心溶融」  「レベル7」風化する危機感

脱原発のうねり 確かに 過酷事故「いずれまた起きる」

【東京新聞・こちら特報部】2018年1月15日

「こちら特報部」が始まったのは、一九六八年三月十二日付朝刊。その四十三回目の「誕生日」に報じたのは東日本大震災の発生だった。未経験の巨大な揺れとともに日本を襲ったのは、東京電力福島第一原発の「レベル7」事故。深い後悔とともに「脱原発社会」を目指すうねりは広がった。事故からまもなく七年になる。私たちは「あの日」に何かを学ぶことができているのか。

伝え続けた「炉心溶融」

 「レベル7」風化する危機感

  政府や東電「過小」説明 学者も楽観論、不信招く

一一年三月十二日朝、ようやく神奈川県内の自宅にたどり着いた原子炉格納容器技術者の後藤政志さん(六八)は、福島第一原発の状況をニュースで知ってうろたえた。「ほとんど絶望的じゃないか」

都内の大学で講演中に被災した前日は、帰るので精いっぱい。原発のことは頭をよぎったが、電車が止まり、飲まず食わずで歩き疲れ、テレビを見る余裕もなかった。

テレビや新聞は、二つの情報を伝えていた。原子炉の中枢に当たる炉心の冷却ができていない。格納容器の圧力が設計圧の二倍になった・・・。「格納容器はこれ以上高圧に耐えられない。危険を判断するには十分だった」。その情報が意味するのは、想像したくもない最悪な事故が今、日本で起こりつつあることだった。「スリーマイルの比じゃない。いつ原子炉の格納容器がぶっ懐れても、おかしくない」

後藤さんは広島大工学部を卒業後、海底石油の掘削装置の設計を経て、八九年に原発メーカーの東芝に中途入社。原子炉の格納容器の圧力と温度に対する強度設計を専門に研究した。東電柏崎刈羽原発(新潟県)や中部電力浜岡原発(静岡県)を手掛け、O九年に定年退職した。

東芝在職中から雑誌に投稿し、原発の危険性に警鐘を鳴らしてきた。筆名は「柴田宏行」。「安全神話」を振りかざす原子力ムラは、異論をことごとく排除してきたからだ。

十二日夜、後藤さんは再び都心に戻り、NPO法人「原子力資料情報室」(東京)が開いた会見に臨席。そこで初めて実名を明かした。「業界からはじかれてもいい。危機を伝えなければ」と決意した。

同情報室は一九七五年に故高木仁三郎氏らが、市民の側から原子力に関する情報収集や調査・研究をしようと設立した研究者らの団体。政府が原子力災害対策特別措置法に基づく「原子力緊急事態宣言」を発令した十一日夜から、全国のメディアや研究者から問い合わせが殺到した。

東京と経済産業省原子力安全・保安院(現原子力規制委員会)が断続的に開く会見で出る情報は限られ、説明は難解。その解説を任されたはずの「専門家」たちの見立ては楽観的で、ー号機の爆発を伝える一報にも「爆破弁を作動させた可能性がある」とテレビで言い切った学者すらいた。

東電も政府も「炉心溶融」の言葉を避け続け、国民の不信を買った。後藤さんは既に起こしているか、起こりつつあると確信。情報室が日本外国特派員協会などで連日のように開いた会見で「炉心溶融」の可能性を指摘した。「大切なのは圧力容器に注水して燃料俸を冷やし続けることだ。今となっては、それ以外はさまつな問題にすぎない」と訴え続け、「こちら特報部」はそのもようを報じた。

「一基でも格納容器が破壊されれば、原発には近づけず、他も冷却ができなくなる。爆発が連鎖し、東日本は懐滅する」。最悪のシナリオを回避できるかは「五分五分」だった。

脱原発のうねり 確かに

  過酷事故「いずれまた起きる」

   原子力資料情報室・伴さん「原発ゼロ法案 思い共有を」

後藤さんが原発を「決定的にだめだ」と考えるようになったのは、二OO七年に起きた新潟中越沖地震だった。6号機などの設計に関わった柏崎刈羽原発で最大で想定を二・五倍上回る揺れを観測し、変圧器火災や放射性物質を含む水漏れなど、全体で約三千のトラブルが続発した。「設計の想定を超えれば、どこが損傷するかは分からない。たまたま炉心溶融を起こさなかっただけだ」とみる。

民主党政権下の一一年十一月から一二年八月まで、原子力安全・保安院のストレステスト意見聴取会の委員を務めた。脱原発派の専門家たちも参加した議論は画期的だった。一二年には、行政や産業界と独立して原発を含む科学技術のあり方を提言するNPO法人APASTも立ち上げ、理事長として活動している。

「レベル7」事故の教訓とは何だったのか。

後藤さんは「格納容器は、放射能を閉じ込める『最後のとりで』にならないというのが、スリーマイル、チェルノブイリ、福島の教訓。原発の多重防護の考え方では、事故の発生確率は減らせても、被害の規模は減らせない」と断言する。半世紀の間に計五基が過酷事故を起こした。「いずれまた起きる」と警告する。

「簡単に人の思いは風化する。だからこそ設計が大切で、ものづくりの中に安全を作り込まないといけない。僕は原発がどこまで安全か知りたくて、メーカーの内部で研究し続けた。絶対に失敗しない技術がない以上、原発は成立しない、というのが3・11を経た結論だ。原発はゾンピみたいにしぶといげれど、息の根を止めるまで死ねない」

「原子力資料情報室」共同代表の伴英幸さん(六六)も、当時、取材に忙殺された一人だ。「原子力緊急事態宣言をどこでどう知ったかも覚えていない」というほどの混乱にも、「本当は何が起きているのか」を見極めようとし、情報を発信し続けた。

直後に殺到した情報室への問い合わせは時を追うごとに減り、危機感も凪-な-いでいった。

一二年末に政権に返り咲いた安倍政権は、脱原発方針を転換、事故がなかったかのように原発再稼働を急ぎ、「復興五輪」に突き進む。

伴さんは「溶け落ちた福島原発のデブリもどこにあるか分からず、福島の住民はほとんど戻れていないにもかかわらず、政府は『復興』を急ぐ。安全神話が復活しているかのようだ」と嘆く。

だが、事故を機に生まれた脱原発のうねりは社会に深く根を下ろしている。

昨年九月に本社加盟の日本世論調査会が行った世論調査で、原発の再稼働に62・6%が「反対」と回答している。小泉純一郎、細川護煕両元首相が顧問を務める民間団体「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」は十日、国内の全原発をただちに停止する「原発ゼロ」法案を発表した。

事故の前には、とても考えられなかった光景だ。

実際、情報室ではチェルノブイリ事故から二年後の一九八八年に、同じ趣旨の法律を求めて三百五十万筆の署名を集めたこともあった。

伴さんは「三十年前は残念ながら実現しなかった。今回の法案は、原発を見詰める機会になる」と期待する。「3・11の直後に、感じた原発への不安は拭われていない。誰もが、このままではいけないと思ったはずだ。その危機感をあらためて共有することから、脱原発社会は始まる。二O一八年はそんな一年にしなければならない」(安藤恭子、白名正和)
=おわり=

(((デスクメモ)))
後藤さんらが臨んだ日本外国特派員協会の会見には記者以外の外国人もいた。「社員を国外に避難させるべきか」。本来、その問いに答えるべき国や東電は、事態を過小評価する説明に終始。被災地への情報すら遅れた。露呈したのは日本の情報公開のお粗末さ。しかも悪化している。(洋)
2018.01.15

2011年 福島第一原発事故

建屋が吹き飛んだ福島第一原発の3号機=2011年3月24日(エア・フォート・サービス提供)

「このままではいずれまた事故は起きる」と危ぶむ後藤政志さん=東京・内幸町で

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