隠れ病む人々と歩む(2018/3/17NHK・Eテレ こころの時代~宗教・人生~)中嶌哲演師の番組【私の山歩きと旅】

1年前(2018年3月17日)のNHK・Eテレで見損なった中嶌哲演師の番組

こころの時代~宗教・人生~「隠れ病む人々と歩む」
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-17/31/7869/2008300/

どなたか動画をUPしてくれていないかと、昨年検索してみたが時期が早すぎたのか見当らなかった。
上牧行動主催者の旦那様から「3/4に哲演さんが関電前にいらっしゃる」とお聞きしたので、調べてみたら、数日前から新聞に載っていたらしい。

「原発延命」断食で反対 中嶌さん、工事中止求め

http://fukunawa.com/fukui/43148.html
2019年3月1日 13:20【フクナワ】

40年超運転に向けた対策工事の中止などを求め断食すると発表する中嶌氏=2月25日、福井県庁

原発反対県民会議の中嶌哲演代表委員(77)は2月26日、原則40年の運転を延長し再稼働を目指す関西電力高浜原発1、2号機(福井県高浜町)と美浜原発3号機(同県美浜町)の安全対策工事の中止などを求め断食を始めた。27、28日は上京し国会議員らに訴えた。
県庁で25日に会見した中嶌氏は「延命工事は安全面、経営面でもリスク。原発の恩恵を受けている関西地域などでアピールしたい」と強調した。対策工事中止のほか、立憲民主、共産、自由、社民の野党4党が2018年に衆院に共同提出した「原発ゼロ基本法案」の審議開始を求めるとしている。
3月4日には、大阪市の関電本店に申し入れる予定。中嶌氏は「工期が延長されたこのタイミングで声を上げたい。断食終了は未定」とした。

 

福井)老朽原発の再稼働に向けた工事 住職が抗議の断食

https://www.asahi.com/articles/ASM2V5D70M2VPGJB00S.html
【朝日新聞デジタル・福井 山田健悟】 2019年2月27日03時00分

断食を始めた中嶌哲演さん=2019年2月26日、福井県庁

関西電力高浜原発1、2号機、美浜原発3号機の再稼働に向け、安全対策工事が進んでいることを受け、福井県小浜市の明通寺住職、中嶌哲演さん(77)が26日、抗議の断食を始めた。3基はいずれも運転40年超の老朽原発。関電に声明文を提出する予定の3月4日まで、断食を続ける意向だ。
中嶌さんは26日、県庁1階のロビーに姿を現した。取材に「世論は原発の再稼働反対に傾いている」と指摘したうえで、「関電には工事を中止し、廃炉を含めた計画の再検討をしてほしい」と語った。さらに「多くの人が原子力について真剣に考えるきっかけをつくり、より議論の輪を広げたい」と話した。
中嶌さんが抗議の断食に入るのは今回で7回目。これまでは再稼働の直前などにすることが多かったが、より抗議に実効性を持たせたいと考えて、工事の段階から断食することにした。(山田健悟)

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今日(3/4)午前中にたぬき御膳さんがツイキャスで放送されていたので、哲演さんのお姿をちらっと見ることができた。
会社勤めしてなければ関電前に行くのに何もできないけれど、断食をご一緒させていただこう。

一年前の動画はわからないけれど、画像と音声を文字おこしなさった方を発見した。本当にありがたい。見そこなってしまった番組をこうして目で読むことが出来てとてもうれしい。「私の山歩きと旅」さんに感謝。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-807.htm
ブログ名:私の山歩きと旅 「宗教の時間へようこそ」より

隠れ病む人々と歩む

          真言宗御室派明通寺住職 中 嶌(なかじま) 哲 演(てつえん)

 

1942年、福井県小浜市生まれ。高野山大学在学中、友人に半ば強引に平和講習に連れて行かれ、1963年に広島原爆の男性被爆者と出会ったのを機に、小浜で被爆者を訪ね歩いて、広島から呼んだ専門医の診察を受けてもらうなど、被爆者支援の活動を始める。また、日本宗教者平和協議会にかかわった。1968年に帰郷。1994年の被爆者援護法制定まで26年間、被爆者支援を目的に毎月6日と9日に明通寺周辺3集落(約80戸)で托鉢を続けた。1968年に小浜市に原発4基の建設・誘致の計画が持ち上がり、1969年に地元漁協による「内外海原発設置反対推進協議会」の活動が始まる中で、1971年暮れに同協議会の後継組織「原発設置反対小浜市民の会」を結成、事務局長を務める。以来、反原発市民運動を展開している。小浜市の真言宗御室派棡山明通寺の住職。

ナレーター:  かつて中国大陸や朝鮮半島から文物を受け入れ、京の都に運ぶ玄関口として栄えた福井県若狭(わかさ)地方小浜市(おばまし)。その山あいに当時の面影を伝える寺院があります。真言宗御室派(おむろは)の名刹明通寺(みようつうじ)。創建は平安時代八○六年と伝えられています。階段状に築かれた伽藍の最上段に位置する国宝の三重塔。鎌倉時代に建てられました。三重塔が見下ろす本堂。明通寺は、福井県で唯一国宝に指定された仏教建築を構える寺院です。一二00年を超える明通寺の伝統を支えてきた住職の家系、中嶌哲演さんは、その跡取りとして生まれ、今年七十六歳になりました。日々の祈りを捧げる本尊は薬師如来。病に苦しむ人々を癒し、安らぎをもたらす仏です。救いを求める参拝者を迎え入れながら、中嶌さんは自らも里に下り、人々の暮らしや社会と積極的に関わってきました。中嶌さんが生涯をかけて取り組んだのは、若狭地方で隠れるようにして生きてきた原爆被災者たちの支援です。二十六年間、托鉢で家々を回り続け、差し出されたお米やお金を全て故郷に住む被爆者たちに捧げてきました。地道な行いを続ける中で、中嶌さんは全国でもとりわけ若狭湾に集中する原発の問題にも目を向けることになりました。核の恐怖に不安を抱えながら生きる人たちと手を取り合い、その訴えを届けようと活動しています。こうした中嶌さんの営みの歳月は、ブッダの教えに深く根ざすものでした。

中嶌:  お釈迦様自身が言っておられるように、「生きとし生けるもの、命あるものは、何よりも自己を大切にし愛おしむものなんだ」という。命あるものすべてに対しても、すごく非暴力。絶対暴力や他者を強制したり、他者を害したり殺したりしちゃいけない。

ナレーター:  中嶌さんの人生を物語る通信書「鈴声(れいせい)」。一九六八年から始めた托鉢で、地域の人たちに読んでもらおうと書いてきた中嶌さんの手紙であり日記でもあります。その中で中嶌さんは、この世の全ての命の尊さを説くブッダの言葉を掲げ、その教えに従って人知れず苦しむ人たちを支えることや、生きとし生けるものを脅かす核と向き合うことの大切さを刻み続けてきました。自らが信じ続けた仏教者としての歩み。その道のりには数多くの出会いがあり、挫折からの目覚めがありました。その出発点は、高校生だった頃、住職を継ぐことに抵抗し、寺を離れた時代に遡ります。

中嶌:  山寺から逃げ出したかったし、あまり坊さんにもなりたいという気持ちも当時は持っていなくて、思春期でしたからね。まぁこの草深い山寺からやっぱり自由を求めて、新しい未知の世界へのあこがれみたいなものを思ってね、一年浪人したんですけども、一九六0年の秋に上京したということでした。当時、いよいよ日本が経済成長、科学技術とこう結びついた経済成長に向かっていく時代でしたから、やっぱり自分の関心のあることだとか、自分のしたいことや願っていることを、こっちの方を優先したいと。そんな人のため世のためにまず自己を犠牲に、自分のことをこっち脇に置いてでも、思慮したり尽くさなければいけない。それが仏教としたら、とてもじゃないが私はそういう器ではないと。まず自分のやりたいこと、思っていることに向かいたいという、そういうある意味では自己中心の、自己を優先にした青年時代の思いというのがあったから。でも上京してびっくりしたのが、特に一九六四年に東京オリンピックがあって、そのオリンピックへ向けて、まぁあちこちを掘り返して、四六時中夜中でも突貫工事の音までが下宿の私の部屋にもちょっと響いてきましたよ。そういうある意味では、活気を帯びた時代でもあったんでしょうけど、やはり東京の街の佇まい自体が、ずいぶん変化をし始めた―自然破壊を含めてね。そういうことにはやっぱりこういう田舎から、草深い山寺から出て行った私にとっては、もう一つ馴染めなかった。違和感をむしろ逆に感じてしまった面がありました。それからもう一つはね、当時私の印象に残っているのは、九州のヘルメットをかぶった炭鉱労働者が、何百人とこう上京してデモを何回も何回も繰り返しましたよ。首切り反対、合理化反対のね。閉山が迫られていましたから。デモを繰り返していましたね。今にして思うと、当時国を挙げて国策としてもだったんでしょうけれども、石炭エネルギー―石炭産業から石油の時代に転換しようとしていた。その端境期にあの労働者たちはいたんだなというの思いますね。いわゆる六十年安保闘争の直後ですからね。その間もない頃だから、政治的社会的な面でも非常になんかざわついている雰囲気もありましたからね。今の安倍首相のおじいさんにあたる信介さんは、首相の座を降りますけどね。でも安保条約のそのものは、もう成立してしまった。まぁ六十年安保が成立してしまって。だから挫折感を味わった人たちも多くて、学生運動に身を打ち込んだ人たちが、大学をやめて行った人たちもいます。ドロップアウト(dropout:脱落、脱退、落ちこぼれ)して行った人たちがね。それに対して、私自身は全然そういう学生運動やデモや集会にあんまり関心が持てないで、なんか内面に突っ込んでいくような、そういういわゆる実存主義的な文学だとか哲学思想だとか、そっちのほうにぐんぐんのめり込んで行ったんですね。そういう実存主義の問題っていうのは、やっぱり死の問題。どんなにハッピー(幸福)で、あるいは美しいものとの出会いがあったりしても、やがて必ず死というものに直面してしまうとすれば、所詮虚しいんじゃないかという、根底にそういう虚無主義というか、ニヒリズム(nihilism:真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場。虚無主義)にとりつかれていたもんですから、ますます不眠症になったりね、不眠症にもなりまして、すごく自分たちは苦しかったわけですね。

ナレーター:  オリンピック景気の陰で切り捨てられようとする人々。政治を変えようとして押しつぶされていく同世代の挫折。そして自分自身に付き纏う生きることへの虚しさ。逃れるように都会を離れ、向かった先は、実家明通寺と同じ真言宗、和歌山県の高野山でした。中嶌さんは、仏教に立ち返り、自分が生きるためのよすがを求めようとしたのです。

 

中嶌:  仏教そのものの原点、大本(おおもと)がどういうものだったのか。お釈迦様までさかのぼって勉強し直さなければ、ということで、ブッダの言葉、それを読みながら、私が出くわしたこの言葉は、ほんとに私にとっては救いだったんですね。

どの方向に心でさがし求めてみても自分よりもさらに愛(いと)しいものを

どこにも見出さなかった

そのように 他人にとっても

それぞれの自己がいとしいのである

それ故に

自分のために

他人を害してはならない

すべての者は

暴力におびえている

すべての生きものにとって

生命が愛(いと)しい

己(おの)が身にひきくらべて

殺してはならぬ

殺さしめてはならぬ。

(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳より)
という。この言葉の中に、なんとか東京時代の私―まぁそれ以前も含めて―東京時代の私が、高野山に移って、このお釈迦様の言葉と出会って、自分の中で新たな転換が起こっていくそのテコになった。結局この広い世界の中で「自分よりも愛しいものはないんだ」という、そのことをお釈迦さん自らそれを認めておられるんですね。東京時代、やっぱり実存主義的な流れの中でのこの自己や他者との捉え方というのは、どうしても自分自身の「生き死に」にすごくこだわってしがみついてね、それは自分がまた愛しいからそうなんですけどね。まず「この自分自身が一番愛しいものなんだよと。君達もそうですね」という、そういう受け入れてもらっているということを、一番私としてはまず最初に救われたわけですけど。ところがその部分だけじゃない、もう少し後になってくると、自分だけがそうじゃなくって、自分以外の全ての人たち、あるいは命あるものすべてが、やっぱり自分が一番愛しいわけですよ。そうすると、自分の愛しさをもう少し相対化して客観的に他の人たちもそうなんだなというところに広がっていきますね。「すべての生き物にとって、命が愛しい。それは自分も他者も同じなんだ。だから己が身に引き比べて殺してはならない、殺させてはならない」という、仏教の平和を求める命を最も大切にし、自己も他者も諸共に平和に共生していくという。自分でも何度も何度も繰り返し味わい、皆さんにも紹介してきた言葉なんですね。

ナレーター:  自分自身を愛おしむ。それは誰も皆同じ。からこそ自らを愛することは、他者の命を大切にすることにもつながっていく。やがて中嶌さんは、故郷福井の地にそのブッダの教えを、一人この世で黙々と実践している人がいることを知ります。その僧侶との出会いが、仏教者として、どう生き、どう行動すべきかを考える新たな原点となりました。後藤日雄(ごとうにちよう)さん。敦賀市にある法華宗の寺の住職でした。この日、中嶌さんは、かつて通い続けた後藤さんの寺を訪ねました。それは大伽藍も塔もない一見寺には見えないような家でした。後藤さん亡き後は無住の寺となり、弟弟子だった小崎学円(こさきがくえん)さんが時折訪れては管理しています。

中嶌:  後藤上人が、本当に気さくにお迎えいただいて、いろいろ学ばせていただきましたね。非常に優しくいろんなご自分が…

小崎:  人間性の濃い方でしたね。

中嶌:  ほんとにそうでしたね。

小崎:  それで靴でも底のある靴見たこともなかったですね。歩いて歩いて、ボロボロになってね。そしてそれを直してね。着るものも履くものも、ほんまに。ここは収入がないです、この寺も。檀家さんもいないで。それであの方、後藤上人はね、耳を怪我されてね、兵隊の時に。唯一の収入というのは軍人恩給でしたよ。それだけでして。それ入ったらね、ほんの少し家族に渡して、後は持って日本中托鉢。

ナレーター:  後藤さんは、若い頃兵隊にとられて出征。戦地で上官に暴力を受けて殴られ、耳が不自由になりました。捕虜となってシベリアに抑留された後、故郷に帰ると、後藤さんは晩年に至るまで、体に染み込んだ戦争の実態を托鉢しながら人々に伝え、歩き続けました。

小崎:  行動すること。口先ばっかりじゃダメなんだと。行動するということが、ガンディー(マハトマ・ガンディー:1869-1948)の言葉で、インドのガンディーさんね、宗教家でもあり、哲学者でもあり、平和運動をやってきた。そんな話をようされていました。それは平和運動する人でも、口だけの人もたくさんおるんやと。そうやけど、実際に体を使って足を運ぶということが大事なんやって、私にようそういうお話をしておられましたね。

ナレーター:  後藤さんに連れられて始めた托鉢。その導きを受けながら、中嶌さんは自分の寺の地域にも歩みを進めていきました。
中嶌:  後藤上人のお姿でやっぱり印象に残っているのは、うちわ太鼓叩いてね、行脚、托鉢をされている姿ですね。仏教の方では「乞食(こつじき)」という言葉を使うんですよ。托鉢の時に、食を乞う。「乞食(こつじき)」これは仏教の重要な修行のひとつなんだというね。一般では、「乞食(こつじき)」を「こじき」というふうに読むでしょ。だから何か若い時代の私も乞食(こじき)の行為のように受け止めて、やる前はそういう感じがあったわけですけど、そうであってはならないんだということを、後藤上人からすごく教えられましたね。こういうことをおっしゃっていましたね。

道に食(しよく)あり。食に道を失う。

というね。道の中に食があるんだ。道を守っていく。正しいことをやっていく、それが食につながる。逆に食のために道を失ってはいけないと。自分の生活、今日明日の糧のために、少々嫌なこと、不当なことでも、それを我慢して、見ざる、言わざる、聞かざる、を決め込んでいくというのは、これは宗教者にあってはならないけど、宗教者にもあるし、一般の生活者の中にも結構こういう生き方というのは、少なくないですよね。その点本当に小さなまぁいわば貧しいお寺で、しかも奥さんと子供さんを托鉢一本で子供さんたちを育てられながら、自分の信念を貫き通しておられた後藤上人の姿には本当に学ばされることが多かったわけですね。私も後藤さんのお供をして一緒に托鉢したときに、体験したことですが、非常に立派な屋敷を構えている家では、私たちの姿をだいぶ前に確認されたと見えて、その家の奥さんがぴしゃっと玄関の戸を閉め切ってしまわれてね、私たちの托鉢する余地がなかった。一方ですね、もうお家も非常に貧しそうで、障子も破けたような、土間に托鉢で足を踏み入れた時に、髪をぼうぼうにした奥さんが、子供を背負った奥さんがね、「ちょっとも待っていてください」って奥へ引っ込まれて、一升マスにお米を盛ってね、托鉢してくださったんですよ。年末の本当にあわただしい年の瀬で、そのお家にとっても大変だったと思うんですけれど、それだけの米を、私たちを待たせて奥に入って托鉢してくださった。ありがたい。もちろんありがたく礼拝はしました、合掌しましたけれども、だからといって、貧しい人からそういうふうにもらったから、特別また何か、特別のこちら側の対応をするというのも、それはまた行き過ぎなんですよ。不当な無礼な扱いを受けても、それを雲が流れていくように、水が流れていくように受け止めていくというのが、托鉢行の根本の精神なんですよ。平等に接していく、すべての人にね。そういう托鉢のありようというのも後藤上人から学ばされていますね。

ナレーター:  明通寺の麓の家々を回り、一人で歩くようになった中嶌さんには、もう一つ後藤さんから学んだことがありました。托鉢の際、自分の思いを綴った紙を袋に携え、一軒一軒配り歩くことです。中嶌さんもまた「鈴声」と名付けた通信を発行。鈴の音はブッダの言葉の響きであり、人々に仏の心を呼び覚ます力を持つと言われます。自らの書にその願いを込めました。

中嶌:  後藤上人は、托鉢の時に、わら半紙に自分でガリ版刷りの訴えを、しかも法華宗の方ですので、法華経だとか、日蓮上人の言葉なんかも紹介されながら、でも単なるお説教的な文章ではなくて、平和の問題に関わる、それを訴えるようなチラシをこう托鉢される先々に入れていかれたんですよね。訴えたいこと、メッセージを、仏教者として、あるいは仏教者が現実のこの今の状況に対してどう、皆さんにもどういうふうに生きてもらいたいか。取り組んでほしいかというようなメッセージを届ける。私自身は、その後自分のこの地元の村での托鉢行で、私は「鈴声」というチラシを配りながら、托鉢したのには、後藤上人から学んだ点が大きかったわけですね。私は鈴をならしながら、家から家へ托鉢したもんですから、小学生の低学年、あるいは幼稚園の小さな子供がね、その鈴の音を耳ざとく聞きつけて、私がもう回っていく十分、十五分も前からね、ずーっと玄関口で待ち構えていて、私が玄関の前に立つと、喜び勇んでその握り締めていた硬貨を私にこうくれるんですね。ありがたいなと思いましてね。その子供がもう二十数年もやっていると、「もう今度高校に入りました」とか、「いやどこそこの大学へ行きました」「大学出て就職しました」とかね、そういうことを同じ子供が成長していく中で、節目節目でそういう挨拶を受けたりしてね。まぁそういうのは非常に嬉しかったですね。

ナレーター:  托鉢で配る「鈴声」にどんな自分なりの思いやメッセージを込めていくべきか。中嶌さんの脳裏に浮かんだのは、高野山での修行時代、和歌山で参加したある平和行進でした。一九六三年の原水爆禁止世界大会に向けた平和行進。中嶌さんは、戦後二十年近くたっても、いまだに苦しむ被爆者の姿を目の当たりにし衝撃を受けました。被爆者の存在を忘れてはならない。そう胸に刻んだ中嶌さんは、「鈴声」の第一号に、「托鉢は広島、長崎に原爆が投下された日付、 六日と九日に行う」と記しています。「鈴声」には、平和行進の時、被爆者の一人から聞いた短歌も載せました。
死ぬる気で出征したる故郷(ふるさと)に

隠れ病む身となりて換(か)へりぬ
中嶌:  その行進に一人の原爆被爆者の方が参加されていて、平和行進の間中ピタッと私の横に付かれてね、その方はたまたま短歌を詠んでおられた方だったんですよ。私にとってはこれまた核の問題、平和の問題を考えていく上での原点になった出会いだった訳ですけど、ここに書いていますが、
死ぬる気で出征したる故郷に

隠れ病む身となりて換へりぬ

という。一日中その方は自分の戦争体験、被爆体験、被爆後のその日まで舐めてこられた苦しい状態、そういうものを切々とズーッと語り続けられましてね。「死ぬる気で出征したる」出征ですよ、征服に出かけて行ったんですよね、かつての日本の戦争は。故郷から送り出されて死んでこいと。お国のため、天皇のために命を捧げて来いとこういっていて、故郷の人々にまで、そうして送り出されて出ていった戦争。そこで散々海外で戦争体験した挙句、広島に駐屯しているときに原爆に遭うという、二重三重の凄まじい体験をなさった方でもあったわけですね。

ナレーター:  中嶌さんをさらに突き動かしたのは、自分の足元である若狭地方にも多くの被爆者がいることを知ったからでした。以来中嶌さんは、故郷に暮らす被爆者たちを訪ね、その声に耳を澄ましてきました。かつては小浜保健所の管内で三十人を数えた被爆者も、今では二人だけとなりました。
中嶌:  おはようございます。

藤内: 全部なくなってますね。

ナレーター:  中嶌さんが、古くから親交を重ねてきた藤内利直(ふじうちとしなお)さん。今年九十五歳になりました。故郷の小浜からフィリピンに出征後、広島に配属され被爆。二十二歳の時でした。

藤内: 広島で被爆したことは隠してる人がずいぶんいましたからね。

中嶌:  ものすごく差別を受けたり、不利な条件に遭うということがあるもんですからね。

藤内: ですからね、あまり被爆者被爆者とか、隠しましたもん。いつ何が出てくるかわからんということはありますわね。

中嶌:  それはご自身の病気がですか?

藤内: はぁ、いつ何が再発するかわからんということが…

中嶌:  健康上の不安ですよね。

藤内: それは多少ありますわね。それはもうこの歳になっていますからしょうがないけど、どうなってもね。

 

ナレーター:  「隠れ病む身」。核兵器による凄まじい暴力を受けた被害者でありながら、口を閉ざすことを強いられて生きてきた人々。中嶌さんは、「鈴声」に隠れ病む身の人々とともに歩む決意を込めたのです。

中嶌:  被爆者の非常に悲惨で気の毒な点というのは、「隠れ病む身」というこの言葉に象徴されているんですけど、まさにそうなんですね。私は、この人との出会い以後、こっち故郷に帰ってきてから、小浜の原爆被害者の人たちとの交流が広がっていくんですけど、「自分が被爆者だ、ということは、もう本当に言いたくないんだ」という。そのことをすごく気にされていたりね。被爆者たちは、「被爆者だ」とこう世間に流されて知られてしまうと、その本人自身が結婚されるときには、あるいは子供や孫が生まれてくる時、まず自分自身がすごく心配されるんですよ、遺伝的にね。そういうこともあって、自分自身が当事者としてあまり人に知られたくないということから、隠れるようにして生きていかなければいけないという。いろんな被爆者の方と交流するたんびに、この言われていた、この歌で表現されていた「隠れ病む身」というのは、いかにもすべての被爆者に普遍的な悩みを表現した言葉だったんだなということを、この歌に立ち返って確認したことが多かったです。

ナレーター:  被爆者の診療に当たってきた医師を広島から招くなど、活動を広げていく中で、放射線被曝の恐ろしさを学んだ中嶌さんは、当時福井で進行中だった新たな核の問題に目を向けていきます。六つの原発施設に十五基の原子炉がたちならぶ福井県若狭湾。中西さんの地元は、全国一の原発集中地帯です。中嶌さんが「鈴声」を始めた頃は、すでに敦賀や美浜で建設が進み、最終段階を迎えようとしていました。「鈴声」にも、原発についての記述が次第に増えていきます。なぜ原発に向き合うべきなのか。それは新たな隠れ病む人々が生み出されていることを知ったからでした。原発敷地内で負傷した作業員の存在です。

中嶌:  大飯(おおい)原発の対岸部の集落の方でね、下請け労働に行っていて、大飯原発の配管から一次冷却水だと思うんですけど、まともにかぶられた人のようでね。福井の弁護士の方と一緒に私はその人の枕元にまで行ってね、「そこまでの被害を受けられたんだから、労災保険を受けられたらどうですか?」ということで、「弁護士さんもその手続きちゃんと取ってもらえると思いますし」と言ってね、すすめたんですけども、「いや、その気にはなりません」というて。「実は自分には子供たちがいて、すでに教師をしたりね、子供たちも独立したりしているので、自分のそういうことが公になったりして、子供たちに迷惑をかけたくないんだ」というね。そういうご本人の強い意志がありました。それから会社側からもなにがしかの補償金のようなものが出ていたかもしれませんけどね。正式のきちっとした補償を受けるということはなしに、結局弁護士さんも足を運んでもらいましたけど、そこまでいかないまま終わってしまいました。私も「わかりました」という。「隠れ病む身」というのは、そういう問題を含んでいるわけですよ。自分が正直被災者になったということが、自分だけの問題じゃなくて、家族にまでいろいろ累が及ぶようなことが話題になっていくことを、当事者が自主規制してしまう。私が言っている隠れ病む身の被爆者の隠れ病む身になってしまっている放射能がらみになってくると、あぁ、こうなるのかという思いを禁じ得ませんね。原爆被爆者が辿(たど)られた苦しい悲しい道をまたなぞるように辿り直しておられるんじゃないかという。やっぱりここまで人々の心を必要以上に萎縮させてしまうのかなぁというのが、なんか悩ましいし、悲しいですしね。ご本人がそのことを、いわば自分で自発的に断られているわけですから、なんとも言えないわけですけど、でもそういう思いにまでさせてしまうというのが、放射能の問題であり、そういうところへ追い込んでいくという現在のその環境、社会的な環境といいますかね、それこそが私は問題だと思っているんですけどね。

ナレーター:  原発誘致の動きは、一九六八年、明通寺の地元小浜市でも起きました。中嶌さんは、市民とともに行動を起こします。小浜市の有権者半数以上の反対署名を集めた結果、市は四年後に誘致を断念しました。しかしそれ以後も、福井県では、新たに十二基の原子炉が増設され稼働しました。一方補償や医療支援、認定基準などで、様々な制限を受け苦しんできた広島・長崎の被爆者には、一筋の光が射し込もうとしていました。一九九四年、国の責任において被爆者の福祉や医療を総合的に進めることを義務付けた被爆者援護法が成立したのです。中嶌さんは、地べたの托鉢で続けてきた被爆者支援の「鈴声」も、一つの区切りを迎えたと考えました。これはその最終号です。托鉢の期間は、二十六年六カ月に及んでいました。その最後の欄に、中嶌さんは「自らの歩みはこれからも続く」と記しています。「この二十六年あまりの托鉢期間に、我が若狭は原発銀座と化してしまいました。本托鉢は終えても、平和への「鈴声」をふり続けていかなければと決意を新たにしている次第です」。新たな決意で出発するにあたり、中嶌さんは絵を一つ載せいます。その絵は常に心の片隅に留めてきたある画集から写したものでした。

中嶌:  これは最後の表紙裏に収録されていた絵なんですね。「原爆の絵HIROSHIMA」という。原爆被災者だけが描いた画集なんですよ。非常に直視するの辛いような絵がたくさんあったんですけど、これはその最後のページに出てたんですね。この被爆者は、これだけの裸の子供の絵を、黒々とした漆黒の闇の中に浮かび上がらせているだけだったんですけどね。その描いた被爆者の人のコメントが出ています。
男の幼児が門にすがって泣いている。声をかけてさわってみると、彼は死んでいた。
原爆被爆者援護からずっといろんな問題がこう広がっていった。その広がりの大きなインパクトを与えられたのが、この漆黒の闇の中にこの頑是(がんぜ)ない男の子の姿を見たことが大きかったと思っています。漆黒の闇の正体はね、私なりに突き止めて行きたい。

 

ナレーター:  漆黒の闇の中には、何が渦巻いているのか。中嶌さんは、「鈴声」でも紹介してきた仏教の究極の言葉「自利(じり)利他(りた)」という視点から闇に光を当て、現状を見つめようとしてきました。

中嶌:  仏教のずーっと歴史の中で、「自利利他」というのは、最も根本的な思想でもあったわけですね。究極の「利」としては、お釈迦様が悟られたその究極の悟りを得ることが自己にとっての最高の利益―利。他の人たちも同じようにその利を得ていただく、最高の利を得てほしいという。そのために他者に働きかけるというのが、仏教に於ける究極の本来の「自利利他」の有り様なんですけどね。仏教がなぜ「利他」という。「自利他利」でなくて、なんで「利他」というのかというと、「他利」というのは、他者の利益・幸福ということを客観的に表現しているわけでしょう。何も自分との関係で自分が他者の利に対して、どうこう積極的に関わるという意味合いは、「他利」のなかには含まれていませんね。「他者の利益・幸福が何か」ということをただ客観的に表現しているわけです。でも「利他」というと、他者を利するという。人のために何か行動を起こす―「利他行為」というのは、それなりの努力がいります。まず、己(おの)が身に引き比べて、相手がどんなに苦しんで悩んでおられるか。あるいはその他者が何を望んでいるかという、その他者の立場に想像力を及ぼす、イマジネーションを及ぼす必要がまだありますね。そうして他者の苦しみが本当に自分のもののように感じられた時に、初めて行動を起こしていく。行動が伴うわけです。そういう立場から私は若狭の原発問題を見つめ捉え直しているんですね。そうすると、非常に単純な話なんですけど、若狭の人たちにとって十五基もの原発を受け入れたことによって、確かに若狭の人たちは「自利」を得ました。インフラ整備は出来たりね、それからいろんな交付金・協力金をもらって、若狭の経済がそれなりに発展した。地域がそれなりに経済的に発展したことは否定できません、公平にみてね。でもその自利の性質が本物の真の利益であったかどうかということは、福島のあの実態を見るならば、福島や若狭の私たちが得てきた「自利」というのは、目先の危険料や不安・迷惑料と引き替えの利益を得ていたに過ぎなかったんじゃないのかということを、福島の事態は問い直していると思うんですね。じゃあでも一方では、いや若狭や福島のわれわれは、立派な利他をやってきたんだ。なぜなら、福島の場合は、関東首都圏の膨大な電力消費の、それに貢献するための原発を受け入れて来たんだからと。若狭の私たちは、関西一円の広大な大電力消費地帯の電力消費に貢献するために、若狭の私たちは受け入れて来たんだからという。それに誇りを持たなければいけないということを、推進する人たちは言ってます。そういう捉え方がありますね。いろんな立場や捉え方によって、何を自利とみなし、何を利他とみなしていくかということは、すごく問題があるわけですね。どうしても私はね、若狭に生きてこざるを得なかった住民で、一住民、一市民であり、一仏教者であるもんだからね。その問題と離れてどうこうってなかなか言いにくい面があるんですけど、若狭の原発と大都市圏とのこの自利利他、真の自利利他円満でない、歪んだ形の自利利他円満の有り様だと思っていまして、それはねお釈迦様の時代まで私は遡って、経典の中から若狭の状況を重ねあわせて捉えている面もあるんです。お釈迦様が生きておられた時代は、弱肉強食の時代で、十六の大国が並び立っていて、周り中の小さな国を滅ぼして、お釈迦さんが出家された釈迦族の国自体滅ぼされています。決してハッピー(幸福)な時代や社会だったから、お釈迦様の思想が、そういう生き方が生まれたんじゃ決してなかったんですよ。だから若狭の状態はやっぱり大国によって釈迦族の国が滅ぼされたその時のお釈迦様の気持ちや立場というのと、僭越だけれども、若狭の原発問題と都市部とのこの関西の大都市圏との関係も、そういう仏教経典のなかのエピソードと自ずとオーバーラップさせながら、受け止めてしまうというところがありましてね。でも、そういう厳しい時代、闇が深い暗黒の時代だったからこそ、ともに平和に生きて共生していこうという、そういう理想を確立されたわけでして、とても足元にも私は及びませんけれどもね、そのことをやっぱり仏教者としてやって、その考え・理想に沿いながらそのことを皆さんに呼びかけていく必要があるのかなということは考えていますね。
ナレーター:  自利利他の行いをどのように実現していくのか。「鈴声」を終えた今も、中嶌さんは地域の人たちとともに活動を続けています。今日は、二か月に一度の有志が集まる日。情報誌を各地に郵送するための作業です。

中嶌:  全国ですよ。沖縄から北海道まで。やっぱり関西、中京方面が多いですけど。

ナレーター:  「はとぽっぽ通信」。若狭の原発の問題を中心にみなで作り上げてきました。中嶌さんがひとりで始めた「鈴声」は、地域の人々も参加する「はとぽっぽ通信」と形を変えて引き継がれています。「はとぽっぽ通信」の最初のページに掲げられる巻頭言、毎号毎号それを書くのが中嶌さんの担当です。最初の「鈴声」から五十年、メッセージを綴る道具は、ガリ版の鉄筆からパソコンのキーにかわりました。

中嶌:  人が笑えますよ。ピアノをポンポンと叩いているようなもんです、一本指で。こうして頭がすぐ飛んじゃうんですよ。ちょっと油断があるとパッと切れてしまう。

ナレーター:  「はとぽっぽ通信」を始めてから、二十年後、中嶌さんたちの恐れが現実となりました。福島第一原発事故です。その後全国すべての原発は稼働を停止しました。そして今九州や四国、福井の若狭地方で、次々と再稼動が進んでいます。その中で中嶌さんは、状況がいかに変わろうとも歩み続けようとしています。その歩みは、「鈴声」を書いていた時代から一貫して中嶌さんが心に刻んできたブッダの言葉に支えられています。

犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め

中嶌:  犀の角というのは、鼻の先に一本だけありますね。犀は堂々と独歩闊歩していってるわけですけど、いかにも象徴的に我一人歩んで行くという、堂々と歩んでいる姿をお釈迦さん自身がイメージされていたと思いますけど、慌てず騒がず堂々と一人歩む。お釈迦様自身が言っておられるように、生きとし生けるもの、命あるものは、何よりも自己を大切にし、愛おしむものなんだという。その命の根源的な有りようというのを、個の命の大切さというものを、愛おしさ尊さというものを、まずお釈迦様は認めていらっしゃるということですね。それを大事にしましょうと。そのことを真に大事にしていくならば、自分以外の他者も全部同様に愛しいものなんですね、それぞれの個人が。犀の角のように己自身を大切にしながら歩まれたお釈迦さんだったからこそ、すべてのものに対しての慈悲の気持ち、慈しみの気持ちというのが可能だったわけですよね。托鉢してると、なんか非常に穏やかな気持ちになってね、蛇が出てきても、お前さんそんな道を悠長に横断していると車に轢かれるぞ、というような、声をかけたくなるような気持ちになってしまうんですね。ところがこれがマイカーで道端を吹っ飛ばしていたりね、まして新幹線に乗ったりしていたら、そんな周りの風景や雰囲気、自然の状態がどうか。生き物がどんなふうになっているかなんていうのは、現代文明の世界では、ますますそういう生きとし生けるものとの触れ合いが遠ざかってきているんですよ。科学技術とタッグを組んだ経済的な繁栄のもとに、欲望を追求、ますます欲望を全面展開しているのが、現代の有り様かもしれませんね。それを保証しているのがまた原発の大量の電力だったかもしれない。それを踏まえて都市の繁栄があったわけですけど、そういう一切合切まで問い直したくなるようなものというのが、私は仏教の根本精神にあると思っていましてね。それが私なりの犀の角のように独り歩んで行くという。独り歩むというのは何も孤立することなんかじゃ全然なくて、人間同士の関係どころか、生きとし生けるもの自然全体と一体化して平和に生きていくということを示唆しているのは、あの犀の角の教えだというふうに私は思っているんですね。

ナレーター:  今年正月、中嶌さんは、明通寺近くの寺に向かいました。その寺の住職が高齢になり、年に一度の法事ができなくなったのです。

中嶌:  ここの家なんかにもおられんのですね。この集落もだんだん住む人がなくなってきていて、

ナレーター:  寺には数少なくなった檀家の人々が集まってきました。一年の幸福を願い、災いを振り払うための法事、大般若祈祷(だいはんにやきとう)。中嶌さんは、六○○巻に及ぶ経文を次々唱え、新年を迎えた人たちに、功徳がもたらされるよう祈りました。

中嶌:  私は、こうして年頭のご祈祷をさせていただきながら、すごい勢いでパンと叩いて「災飛んで行け」という、そういう意味も込めてお経を唱えさせていただいたわけですけども、仏教のお釈迦様の基本的な教えの中に、無常―すべてのものは移り変わって止まないという、そういうことであるわけですけど、私たち自身の身体も心も変わっていますが、社会も変わっていく。悪い状態をいい方向に変えていくということなんです。決して不可能ではないということを、無常ということは、私たちに教えてくれていると思うんですね。今こういう状態だから、あんまりものも言えないし、意見言ったところで変わらんのじゃないかという、そういう諦めの気持ちというのは、若狭の人たちは結構多かったと思うんですよ。しかし、まさに諸行は無常なんですね。今年、去年何もなくて、なんとか災難を免れて、「二○一九年(平成三十一年)を迎えることができたね」っていう喜び合えるような、来年もこの日を迎えたいなというふうに願っています。

 

これは、平成三十年三月十一日に、NHK教育テレビの 「こころの時代」で放映されたものである

 

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