19/03/31「福島・飯舘村の今」語るシンポジウム 避難者に募る疎外感 子や孫おらず「夢ない」【東京新聞・特報】

飯舘村放射能エコロジー研究会(IISORA) 第10回シンポジウム2019福島
http://iitate-sora.net/fukushimasymposium/fukushima2019

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「福島・飯舘村の今」語るシンポジウム

  避難者に募る疎外感

    ハコモノ先行の復興 役場の目線「村内ばかり」

子や孫おらず「夢ない」

 帰還者 故郷で生活再開も

   事故から8年「なかったこと」に抵抗を

https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2019033102000171.html
【東京新聞・こちら特報部】2019年3月31日

東京電力福島第一原発事故によって全村避難を強いられた福島県飯舘村で、三十一日は一つの節目に当たる。二年前、大半の地域で避難指示が解除された日だ。村は国ともども復興をアピールしてきたが、村民を取り巻く環境は複雑さを増している。そうした状況を語り合うシンポジウムが二十三日、京都大の今中哲二氏らでつくる「飯舘村放射能エコロジー研究会(IISORA)」によって開かれた。村民の声や研究者の議論を詳しく紹介する。 (榊原崇仁)
(写真)
飯舘村の今を語り合った村民ら=福島市内で

住宅近くに積まれた除染廃棄物=2月、福島県飯館村で

「福島の問題は沖縄と似ているJと語った今中哲二氏=福島市内で

十回目を迎えたIISORAのシンポ。村民ら約二百人が詰め掛けた福島市内の会場で、同市で避難生活を続ける農業菅野哲さん(七0)がこう語った。

「八年前、いち早く避難した人は『村を捨てた』と言われた。いま、避難を続ける私たちは行政側からどう見られているか。飯舘村民として認められているか。ないがしろにされているように思えてならない」

原発から約三十キロ離れながら全村避難となった飯舘村を巡って、政府はニO一七年三月三十一日、帰還困難区域の長泥地区を除いて避難指示を解除した。あれから二年。事故前の人口の六千人強に対し、千人程度が村民戻った。村民の多くは生活環境を考え、やむなく避難を続けているが、村役場は村内ばかりに目を向けている、というのが菅野さんの実感だ。

村内の施設整備は確かに進んだ。一七年八月に道の駅「までい館」ができたほか、野球場やサッカー場、屋内運動場を備えたスポーツ公園もオープン。一八年四月には小中学校を一カ所に集約して再開させ、こども園も新築した。子どもたちには、ファッションデザイナーのコシノヒロコさんが手がけた制服を無料で配り、給食や学童保育などの費用は無償化した。

しかし新たな村づくりの中で「避難している村民の位置付けは考えられていない」。故郷への思いは避雛者にもあるのに「戻らない村民はあてにしない。戻った村民だりで村づくりをする方向のよう」。村政に意見できる機会はほぼなく、疎外感が募る一方、避難先での生活再建の支援は乏しく「村を見切り、自力で何とか自立しようとする人が目立つ」。

元村職員の横山秀人さん(四八)も避難村民が冷たく扱われていると感じる。

福島市内で暮らしている横山さんは一七年末、避難している村民同士が悩みや希望を話し合う場として「いいたて未来会」を設けた。「村の規約に沿った『自治組織』にしようと動いていた。村にそう認められると、広報誌で活動を周知してもらえるので」

避難者にも郵送する広報誌の力を借り、避離者同士をつなぎたいと考えたわけだが、自治組織の認定は受けられず、思惑通りにならなかった。「避難者の新たなコミュニティーができると帰村を妨げると考えたのか。残念でならない」

ハコモノ先行の復興に対する懸念も強い。

佐藤健太村議(三七)は「阪神大震災で被災した方に話を聞くと、『ゼネコンが町を造りかえたので愛着がなくなった』ということだった。飯舘村で同じことが起きている」と語る。

村の予算は事故前の三~五倍程度になったが、「職員の数はそれだり増えていない。仕事は手いっぱいの状況」。頼るのは村外のコンサルタント会社という。

佐藤八郎村議(六七〉も「村長は国の役人と相談して事を進める。議会とか区長会とかに話が来る前に報道される。今は民主主義が崩れている」と嘆く。

村で生活を再開させた人たちは何を思うのか。

伊達市の仮設住宅から昨年五月に帰還した長谷川健一さん(六五)は「体が動くうちは農地を荒廃させちゃいかんと思った」と語る。

一緒にそばづくりを試みる仲間がいるが、故郷へ戻った人たちは「みんな、私より年上。私が青年団長です。年齢自体、事故から八歳も増えたし」。若い世代は放射能の影響を考え、避難を続ける例が目立ち「子どもたちがいない、孫たちがいない状況。それが致命的。夢も希望もない」。

避難先の福島市と飯舘村の自宅を行き来する農業の渡辺とみ子さん(六五)は「去年、夫を亡くした。飯舘の家を守らないといけないけど、年金暮らしでは破綻してしまう」と語る。収入を得るため、事故前から栽培してきたカボチャ作りを続けているという。

飯舘村で唯一、避難指示が続く帰還困難区域の長泥地区も理不尽な状況に置かれている。

住民側が望んできたのは、広い範囲での住宅除染だった。しかし国の制度上、帰還困難区域で除染の対象になるには、「特定復興再生拠点区域」(復関拠点)に入る必要があった。

村と国が協議する中、除染土壌を長泥地区の復興拠点で再利用し、農地造成する案が浮上した。広い範囲で再利用すれば拠点のエリアは広くなり、住民の希望に添う形で住宅の除染も行うという筋書きだった。住民たちは苦渋の決断の末、除染土再利用を受け入れ、昨年九月から関連工事が始まった。

憤りの言葉を語ったのが、事故前から村のまちづくりに関わってきた日本大の糸長浩司特任教授(環境学)だ。各地の除染土を減ら玄すため、事故直後から国が再利用を計画していたことに触れ、「長泥では住民の気持ち手利用して駆け引きした」と非難した。

前出の佐藤八郎村議も「長泥をだますなんて完全に間違っている。悔しくてならない」と述べる一方、「長泥地区は住民が一体になって復興極点の構想を進めようとしている。議会が反対するのは非常に難しい」と複雑な胸中を明かした。

東京電力にも、厳しい言葉が飛んだ。

村民の半数に当たる約三千人は賠償の増額を求め、裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てたが、このうちの初期被ぼくの慰謝料については昨年七月、東電が和解案を拒否したために手続きが打ち切られた。

弁護団の海渡雄一弁護士は「東電は自らの責任で事故が生じたと思っていない」と指摘した上、東電旧経営陣の刑事裁判に言及し「いいかげんな態度を改めさせるために非常に重要なターニングポイントになる」と訴えた。

事故から八年がすぎ、国も村も「復興が進んだ」と強調している。しかし国学院大の菅井益郎名誉教授〈日本経済史)は足尾銅山鉱毒事件など過去の公害に触れ「国はあわよくば被害がなかったことにしようとしてきた。福島の事故では絶対に避けなければいけない」と訴える。

シンポを締めくくる言葉を述べた今中氏も、こう呼び掛けた。「福島の問題は沖縄と似ている。東京の霞が関や永田町が中心になって、(地元の被害が)多くの人に見えないようにする試みが行われている。だからこそ私たちは声を上げ続けなければいけない」

((((デスクメモ))))

「日本で最も美しい村」連合に加盟し、農業で村おこしを進めていた飯舘村。原発事故がなければ、ほとんどの人は静かな暮らしを続けていただろう。避難している人も、村で苦労している人も被害者であり、分断と苦悩は国と東電が招いたものだ。何年たっても忘れてはならない。(本) 2019・3・31

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