1/3新年企画「不屈の詩(うた)」 辺野古移設反対貫き通す・金城武政さん【東京新聞・特報】沖縄県名護市

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上)米軍キャンプ・シュワプのゲート前でプラカードを手にする金城さん

(不屈の詩)辺野古移設反対 貫き通す

金城 武政さん(58) 沖縄県名護市

2015年1月3日【東京新聞・こちら特報部】

基地がなければ、母は殺されずに済んだ

人口二千人弱の沖縄県名護市辺野古で新基地建設に反対する住民は三、四人しかいない。その一人が金城(きんじょう)武政(五八)だ。

一九六0~七0年代、米軍キャンプ・シユワプそばの辺野古では、ベトナムに赴く米兵が「最後の晩餐」とばかりに夜な夜な街に繰り出した。色とりどりのネオンがまたたき、女性の矯声が際く。ベトナム特需でにぎわう街角で金城は育った。

「シュワプのヒージャノミーはベトナムに死にに行くのさ」。住民はささやき合った。ヒージャノミーは沖縄言葉で「ヤギの目」。目が青い米兵の隠語だ。金城はまだ子供だったが、泥沼化した戦地の惨劇は想像できた。「戦争は人を狂わせる」。金城は最も悲惨な形でそれを思い知らされる。母の富子=享年(五二)=が米兵に殺されたのだ。

五八年、金城一家は辺野古に移り住んだ。父の武は米軍普天間飛行場(宜野湾市)近くで日本料理店を経営していたが、知人の借金を背負って倒産。できたばかりのキャンプ・シュワプに目を付けた。両親と十二歳上の姉民子、二歳下の弟武範の五人家族。父は三線の師範で女性にもてたが、酔うと母に手をあげた。金城は「三線弾く男はアシパー(遊び人)」と嫌った。

自らはギターを手にフォークソングにのめり込んだ。母は洋裁教室のかたわら、自宅の一階にパー「アポロ」を開いた。カウンター八席、ボックス席が三つ。二十人も座れば満席になる小さな店だった。母は前夜がどんなに遅くても、朝早く起き出して自宅と店を掃除し、子供たちの朝食を作った。

「お母さん、店の掃除はぼくがやるから、もっと寝てなさい」。長男の金城は母をいたわった。「体は小さいけど働き者の母を尊敬していた。父はいつも二日酔いで寝ていたからね」。母への暴力がひどい時は、高校を休んで父を見張ることもあった。

そんな生活の中で事件は起こる。七四年十月の深夜。自宅一階では、父が弟子たちに三線の稽古をつけていた。「母の叫び声は三線の音にかき消されたのかもしれない。二階にいたぼくには何も聞こえなかった」。金城は苦々しげに振り返る。発見したのは弟。母は店のソファで頭から血を流して倒れていた。足元には血と毛髪が付着したブロック片。

近所のホテルで、黒人の米兵が従業員に「人を殺してきた」と打ち明けた。慌てた従業員がアポロに駆け込み、犯人が分かった。病院に運ばれた母は、三日後に息を引き取った。帰宅した遺体は頭の一部が陥没。頭髪が剃られ、かつらをかぶせられていた。「かわいそうで見ていられなかった」

犯人の米兵はシュワブの海兵隊に所属する十九歳の少年。店の金二十ドルを握りしめていた。自分とは同年代だ。「きっと戦争で頭がおかしくなってたんだ。戦争と基地が母を奪ったんだ」。だが、若い金城には、怒りのぷつけ先が分からなかった。

ベトナムではサイゴン陥落が間近だった。戦争が終結に向かうにつれ、辺野古の享楽の灯もしぼんでいった。母の死から半年、高校を卒業した金城は沖縄を雛れた。犯人の米兵はその後、日本で数年間、服役したと人づてに聞いた。

「犠牲の歴史」変える

「地元民だから、声なき声代弁できる」

上京した金城が最初に職を得たのは東京駅八重洲口の老舗ビアホールだった。 「沖縄とは温度差があった」。高度経済成長にわく本土に戦争の影はなく、沖縄の基地問題に心を寄せる人などいなかった。マネジャーは「沖縄言葉は出すな」とくぎを刺した。アパートの大家は「あなた沖縄人?」と怪訝な顔をした。 「自分は日本人。がっくりした」

ほどなくビアホールを辞めたが、母の死で多額の補償金を受け取った父は再婚。実家に居場所はなかった。一時は写植オペレーターで身を立てるが、体を壊してしまった。その後は、工場期間工として東京、名古屋、大阪を流転した。

二十年前、一時帰郷すると、病床の父が打ち明けた。「富子の事件で二千八百万円もらった。全部使った」。金城は情けなさに涙を流しながら、再び本土へ働きに出た。父とはそれが最後だった。

父の死後、辺野古に戻った金城は九九年、警備会社に就職。当時から普天間飛行場の移設先として辺野古が有力視されていた。金城の仕事は、辺野古漁港での移段反対派の監視と活動阻止。ここでの勤務が金城の運命を決定づける。

「沖縄戦を経験したおじいやおばあが『沖縄に基地はいらない』と、暑い日も寒い日も港にやって来た。確かに、母は基地がなげれば死なずに済んだ。でも、この街で基地に反対するのは無理だとあきらめていた。おじいやおばあを見て、仲間を見つけたと思ったし、あの意志を誰かが継がなきゃいけないと思った」。葛藤の末、一年後に警備会社を辞めた金城は反対側へ回った。

今は毎朝七時半、キャンプ・シュワブのゲート前へ出掛けては、座り込み活動に来る人のために全長約五十メートルのテントを組み立てる。「おい、金城!」。街中で近所の高校生たちに挑発される。近づくと「わ!」と逃げていく。まるで変人扱いだ。市職員は「ゲート前での活動で日給一万五千円もらっているという話は本当か」と真顔で聞いてくる。自宅隣のレストランの店主は小学二年から野球で共に汗を流した同級生だが、もう何年も口をきいていない。

それでも「苦にならない」と言い切る。「これ見て」。金城は、沖縄で起きた米軍関連の事件事故約三十件の一覧表を差し出した。母の殺害事件も含まれている。基地の歴史は沖縄の犠牲の歴史だ。

「多額の補償金で口止めされたり、仲間外れが怖くて、声をあげられない被害者や住民はいっぱいいる。米軍機が落ちた時、普天間も辺野古も住民の命の重さは同じだ」

金城にこっそり「がんばって」と声をかける住民も存在する。「なぜ沖縄だけが犠牲になるんだと、本当はみんな怒っている。本土の人間じゃなく、辺野古に住むぼくが運動することで、地元の声なき声を代弁できると信じている。やめるわりにはいかない」

ベトナム戦争特需で栄えた沖縄は、ベトナム人から「悪魔の島」と呼ばれた。ベトナムから見れば、兵士と非人道的な兵器を送り込む前線基地にほかならないからだ。金城は、辺野古と隣接する大浦湾を指さした。日の光を受げて光り輝いている。

「シュワブが拡大すれば、米軍の次の戦争では、辺野古は最重要拠点の一つになる。あそこからまた、たくさんの飛行機が出ていく。戦争でもうける繁栄ならいらない。戦争に行く兵隊は辺野古にいらない。米軍に母を殺された自分のような思いはもうたくさんだ」

(沢田千秋、文中敬称略)

(((デスクメモ)))
サザンオールスターズは、大みそかのNHK紅白歓合戦で「ピースとハイライト」を歌った。♯裸の王様が牛耳る世は・・・狂気(Insane) 二十世紀で懲りたはずでしょう?・・・。戦後七十年、戦争の二十世紀の教訓は忘れ去られようとしている。沖縄は「戦争の二十一世紀」の最前線に立たされている。( 圭)

「名護市長選、沖縄県知事選、衆院選の結果で政府は焦ってきていると思う」と話す金城武政さん=いずれも同県名護市で

下)母の富子さんが経営していたバー「アポロ」の玄関前に立つ金城さん

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2021/5/13 投稿ページが真っ白で何もできなくなったので、ブログ停止します。まるで画面がウィルスに汚染されたかのようで、わけわかりません。
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